山頭火 (2023年5月24日)


戦争への思い(p.159、大山)

日中戦争が1937年(昭和12年)に始まり若者が戦争にとられる。馬も連れて行かれる。

ふたたびは踏むまいと踏みしめて征く(p.291)

応召で二度と踏むことがないかもしれない故郷の地

しぐれつつしづかにも六百五十柱(岩、p.340)


戦況が激しくなり、山口の駅からお骨の白い函を持った人々に衝撃を受けた。迎える人もすすり泣いていた。

戦死者がお骨となって帰ってくる。

雪へ雪ふる戦ひはこれからだといふ

もくもくとしてしぐるる白い函をまえに

いさましくもかなしくも白い函

お骨声なくみずのうへをゆく

その一片はふるさとの土となる秋

みんな出て征く山の青さのいよいよ青く

これが最後の日本の御飯を食べてゐる、汗

ぢつと瞳が瞳に喰ひ入る瞳

足は手は支那に残してふたたび日本に(戦傷兵士)

日ざかりの千人針の一針づつ


出て征く夫のために涙ぐんで赤糸の一針を求める若い妻。千人の人に一針縫ってもらう。武運があると言われる。

反戦句ではないが日常的な市民の悲しみを詠いあげている。これはこれでよいのではないか。戦争を賛美するのではない。山頭火は争いは嫌いなのだ。


『ひとたばの手紙』から反戦的俳句、これも無季俳句。

憲兵の前で滑って転んじゃった

戦争が廊下の奥に立っていた


この俳人は憲兵に逮捕され、監獄に入れられた。

大学生髪やはらかく戦死せり

傷兵を抱き傷兵の血に染まる

戦場へ一本の列が生き動く

兵寝て醒めず列車に雨来る

母の手に英霊ふるへをり鉄路

水筒の弾痕に触れ痛し

一兵士はしり戦場生れたり


にらみ合っていた戦闘集団が、一兵士の撃ちやすい場所への素早い移動をきっかけに戦闘が始まったのだろう。


私の自由律句

茶の間まで戦争飛び込むテレヴィジョン

人身御供停戦までに幾十万


山頭火は戦時普通の仕事を考えたが続かない。世の役に立たない社会のいぼだ、落ちこぼれと自嘲する。句しかできないと腹をくくる。

だがこの非常時にまた大酒を無銭飲食してしまう。45円を飲んだ。この金額は当時の巡査の初任給だという。よく飲んだものだ。この人は発作のようにこういった行動に走る。支払わねば刑務所だ。あちこちにSOSして息子の健太が支払った。上のようにすごい句を作るのに、酒は山頭火を愚弄する。

普通ならもう社会的には失墜する醜態なのだが、山頭火の自由律句がそのグループの高い評価を得ていたので、大酒飲みのしょうがない翁と受け入れられていたのだ。

このような醜態は幾度かしている。生活のため一杯飲むため金はあちこちから借りている。多分ほとんどは返さなかったのだろう(岩川、p.332以下)。


その点で尾崎放哉は気の毒だ。山頭火と同じ層雲に属し、自由律句の両雄として並び立っていた。東大出身のエリートだったが、同じように酒に問題があり、気の毒に酒乱だったらしい。人間関係もうまくいかず、転々と流転して。小豆島の南郷庵で貧困の中で病死した。山頭火もやはり貧困の中で心臓まひで急死する。このあたりも二人は似ている。


尾崎放哉の句

咳をしても一人

こんな良い月を一人で見て寝る

一人の道が暮れてきた

海風に筒抜けられて居るいつも一人

ひとをそしる心をすて豆の皮むく

障子あけて置く海も暮れきる

障子しめきって淋しさをみたす


これなどすごみがある。寂しさを究めようというのだ。普通なら寂しければ窓でも開けて星明りを見る、テレビつける、などして紛らそうとする。

ここに掲載された句は、独居の淋しさを詠っているのか、独居の優雅さを追求しているのかどうなのだろうか。

放哉はもともと無口で社会生活が苦手だと言われるから独居の楽しさを俳句にしたのだろう。


酒の事

酒乱は気の毒だ。飲むと気がくるってしまうのだ。アル症も気の毒だ。これはアルコールが止まらなくなるのだ。山頭火はアル症だったのだろう。

私も酒は飲む。毎日飲む。だけど沢山は飲めない。最近は飲んでもあまりおいしくない。

連続飲酒は無理だ。おいしくないし、体が続かない。だからそんな人はすごいと思う。体質が違うのかもしれない。

なんとなくわかるのは、私はチェーンスモーカーだった。寝ている以外は常に吸っている。おいしくないのに吸ってしまう。おいしさを求めて吸っているのかもしれない。頭の構造がそうなってしまっているのだろう。多分体よりも頭とか心がたばこを求めていたのかもしれない。今でも、多分一本吸えばたちまちヘビースモーカーになってしまうのだろうと思っている。恐ろしいことだ。


尾崎放哉の酒

突如として飲む。精神の不安を押さえようと飲む。酔いつぶれるまで飲む。飲むと攻撃的な粗暴な行動に出る(p.93)

飲まない時は優しい人間だ。しゃべりは下手だ。普通より弱い性格だ。

酒を飲むとジキルとハイドの二つの人格が転換する。素面の放哉と飲んだ放哉では同一人物と思われないほどだ。酒から醒めると酒で犯した失敗を激しく懺悔する。彼の人生はその繰り返しだ。これがその後のザンゲの生活だ(p.149、放哉評伝、村上護、放哉文庫、春陽堂)。


学生の頃からたくさん飲んだようだ。エリート社員として生命保険会社に入ったが、酒のそのような失敗で退社だ。大陸に渡っても同じく酒で失敗。病気を得て日本に戻る。一燈園に入るも酒の失敗。天功批判で去る。いくつか寺男になっても酒で失敗。最後は小豆島の庵で病死する。こういった庵も東大の出身の繋がりで紹介され入庵できたのだ。

こうしてみると、山頭火とさほど違いはない。ただ山頭火には酒乱や酒の凶暴さは聞かない。ただ目一杯飲んで知人に払わせたり、無銭飲食でぶち込まれたりした。彼の賢いのは行乞で稼げたことだ。放哉はせいぜい寺男になることだった。寺男になっても飲んでその住職を罵倒して追い出されたりした。放哉は結核で41歳で亡くなる。ほとんど自死に近いのではないか。何か生きる意欲はもうなかったのではないだろうか。自分の酒の問題に人生がいやになったのではないだろうか。山頭火は最後まで酒を愛し、周りからも愛された人生だったらしい。

放哉などは断酒しかまともに生きるには方法がないのだが、断酒はとても難しい。ちょっと一杯飲めばもう止まらなくなるのが放哉の酒だった。断酒会はある。断酒している人はいる。山谷にも山谷マックという断酒会はある。頑張っている人たちもいるのだ。

放哉のような酒癖の人は山谷にもいた。そ人は頭が切れる、そしてきちっと仲間の面倒をみるのだが、酒が入るとくるってしまうのだ。やたら粗暴になる。殴る。放哉のようだ。断酒もしたようだが、うまくいかず、自殺したと聞く。もう一人は普段は本当に借りてきた猫のようにおとなしい、酒が入ると粗暴になりめちゃくしゃになってしまう。今どうなったか。

こういう人は酒が脳神経に合わないのだ。飲めば神経がくるってしまうのだ。私も一度そのようなことがあった。仲間と飲んで気に食わないことがあってテーブルをひっくり返したことがあった。あとはあまり荒れたことはなかった。


山谷ではそういった癖があっても生きていけた。日雇いだから一日酒を我慢して仕事に行けば、金が入るし、それで飲んで暴れてもマンモス交番が来て豚箱に入り、次の日釈放とかだ。ただ暴れられた方は迷惑だ。まりや食堂もそんなことがあった。酔って粗暴な行為があったらみんなでやめてくださいとか、皆で対応するとよいとか教えられ実践した。実際酒で暴れる人は一番厄介だった。私はまりや食堂を守るために空手道場で鍛え、そういった人と渡り合ったりした。あれから40年もたって山谷もおとなしくなったが、たまにおかしなのがいる。まだまだドヤ街だから、いろんな人が流れてくるのだ。私はもういい加減な年になっているが、いざというときのために体は鍛えている。

山頭火と山谷と酒 (2023年4月28日)


(p.247、岩川または石)

ほろほろ酔うて木の葉ふる

行乞しながら一杯ひっかけて旅をする、網代笠に木の葉がはらはらと落ちてくる晩秋なのだ。

酔へばあさましく酔わねばさびしく

山頭火は泥酔するまで飲まねば気が済まなかった

酒飲めば涙ながるるおろかな秋ぞ

57歳の山頭火は体が弱り、酒が弱くなった。胸がゼイゼイなる。3合ぐらいで酔って寝てしまう。58歳で亡くなる。長い行乞放浪生活は木賃宿粗末な食事、野宿毎日の酒で体が弱ってしまったのだ。

彼の酒はとことん飲む酒だ。アル中だ。山頭火を読むと山谷の昔の仲間を思い出す。今から40年前の日雇い者の町山谷は活気があった。彼らもとことん酒を飲んだ(その中に私も入る)。だから彼は他人事ではないが、仲間でも彼ほど飲める人はさほどいなかったと思う。私の知っている人に一人いた。朝からずっと飲み続ける。ずっと、限界で、どこでもひっくり返り寝てしまう。三日は酒を断つ。幻覚の人もいた「そこに虫が走る」と叫ぶ。

山頭火は泥酔した次の日はもうしゃきっとしているのか。多分そうではあるまい。仲間も私も酒好きという点で彼と同じなので私はなんとなく彼に興味を持つ。

もう一つは俳句だ。私は定型だが彼のは自由律句だ。それは季語や定形に縛られずに気持ちを読める。学びたいと思う。

もう一つは彼は旅人だ。私も人生の旅人と思っている。

もう一つは彼は乞食坊主だ。托鉢で路銀を稼ぎ泊まり歩き句作飲み続ける。私も支援で食べているから似たようなものだ。

もう一つは彼は禅宗の坊さんだ。私はキリスト教の牧師だ。両方ともかなり自由な考え生き方だという点で似ている。

自由律句一句。ついに買う命守りしヘルメット

彼は行乞を嫌ったが、この方法しか生きる道はなかった(石、p.269)。

「一握りのこめをいただいてまいにちの旅」

家を托鉢(たくはつ)して経を上げお布施やお米をもらうのだ。それを行乞(ぎょうこつ)という。そのお金とお米で木賃宿に泊まり酒を飲むのだ。米5合が20銭だという(p.269)。托鉢できるのは曹洞宗の坊さんになったからだ。これは生きるためには必要だったのだろう。

酒は底なしだ。ほろほろ、とろとろ、どろどろ、ぼろぼろ、ごろごろ酔う。

「酔いさめの風のかなしく吹きぬける」、とことん飲んで奈落の底まで沈む(p.247)。

酒の失敗もたくさんある。悲しい酒だが、酒が俳句のガソリンでもある(p.247)。

私も酒は好きで毎晩飲むから彼のことを批判する立場にはない。酒の失敗もある。飲み屋のドアガラスを蹴破りマンモスに突き出され、上さんが引き取りに来たこともある。

山谷の私の仲間は酒好きだった。皆とことん飲む。仕事がなければ飲む、仕事があれば終わってから飲む。雨でアブレれば朝から飲む。当時立ち飲み屋はいくつもあった。飲むのに不自由はしなかったし、朝から飲んでも変な顔をする人いはなかった、朝から酔っぱらっても周りは笑っている。ほんとに当時の山谷はおおらかだった。仕事はきつかった。それだけ酒はうまかった。雨で仕事がなければ開放感から朝から酒になるのだ。

この人はアルコール依存症なのだろう。酒なしには生きていけないのだ。でもよく発病しないで生き切ったなと感心する。これだけ飲めば幻聴、幻覚、せんもう、肝臓障害など起こし病院の世話になるのだ。

私なども毎晩飲むから、肝臓障害などはありうる。今は元気だ。飲みたいから病気はしたくない。入院はいやだ。酒が飲めないからだ。まあ、入院なれば気合を入れて禁酒をするしかない。

知り合いはアルコールの深みにはまってしまっている。もうあまり歩けないのだが、それでも飲んで飲み続けている。ご飯はほとんど食べていない。おかずもほとんど食べない。トイレは間に合わない時が多く,粗相をしていて部屋がどうにもならなくなっていると奥さんがこぼしている。どうするのか。本人は子供に返っていてわめき散らすと言う。説得して酒を断酒する病院に入るしかないのだ。かわいそうに。酒はうまいが、物悲しい存在でもある。気を付けないと取りつかれ魂が抜かれてしまう。

(岩、p.233)山頭火は酒でドロドロになるから定住より旅が良いのだ。

(岩、p.233-4)

旅と俳句と酒と湯が好きなのだ。普通の人は金と暇はそうないが、山頭火はそうではないのだ。仕事をしてないから暇はたっぷりだ。金は各地に友人がいる。行乞という技術も持っている。暖かいから行倒れもない。

「春風の鉢の子一つ」

托鉢の鉢だ。お布施、お米などを入れてもらう器だ。自由律句の名手だから各地にファンがいるのだ。多分憎めないタイプの人なのだろう。そこを頼りに旅に出るのだ。そこに逗留して酒三昧だ。行乞すれば食ってはいけるのだ。岩川が皮肉ではなく、事実を語っているのだろう。これが彼の生きざまだ。私は定型句だが、彼の自由律句はうまいと思う。私は自分の句作の参考にしたい。

今の私は行乞と似ている。年二回機関誌を出して献金をお願いしてそれで生活が成り立っているからだ。

(岩、p.79)

山頭火は酒乱だと言う。飲めば泥酔するまで飲む。冷めた後の虚無感が強い。うつ病でもあった。

(p.140)酒のうまさを知ることは幸福でもあり不幸でもあるのだ。

山谷の仲間には酒をかたきのように飲むものもいた。飲んで飲んで飲みまくる。飲みすぎれば次の日は仕事に出ない。仕事はバリバリやる。こういう人は酒のない国に生まれたなら立身出世できたのだろうと思う。イスラム教の国では酒はご法度だからそういった国に生まれたならよかったのだ。そういった人は山谷にはいくらもいたと思う。

私も一緒に飲んだし、まりやを開設し、日雇いをやめた今も晩酌は欠かせない。せいぜい2-3合だが、一合が良いそうだ。できるだけ抑えようとするがなかなかそうはいかない。泥酔するほどは飲めないが、もっと減らすべきとは思っているから気持ちは彼と同じだ。飲まないと思ってもずるずる飲むのが彼だ。私も毎晩だ。だから旅で行乞した方が飲めないのだ、そんなに喜捨はないからだ。私には夜の晩酌しか楽しみはないのだ。ボードでも、テニスでも帰宅後の酒がうまいのだ。次の日がボードやテニスの時は控えめにしないと体がうまく動かない。

それでも結構飲んでしまう。やっぱり彼に近い。

(p.435)時々アル中の発作、身辺幻影しきりと書いてある。やはり飲まないと禁断症状が出るのだろう。(p.456)戦争たけなわになり、行乞のもらいが少ない。もく拾いもする。山谷の野宿の人もしている。飲みたくて、足が飲み屋料亭に向く。無銭飲食、つけ馬と一緒に俳友の家行き払ってもらう。無銭飲食を幾たびか起こしている。醒(さ)めれば自責の念。山谷でも気が付くと酒の自動販売機の前に立っていたという仲間がいた。ある人は酒乱で何度か断酒しても無理で自分をはかなんで自殺した人もいる。酒はなかなかつらい存在だ。

山頭火は鉄面皮なのかもしれない。自堕落なくずかもしれない。ずうずうしく無銭飲食で実際何度かぶた箱に入れられている。自由律句は巧みでそのグループの人々からは尊敬はされていた。愛すべき人なのだろうか。この矛盾の中で生き、そういった自分の支持者に依存して生きていたのだろう。金あればぐてぐてに酔って道端で寝転がっていたという(p.461)。

私が長く面倒をみた山谷のおじさんNを思う。酔って道端で寝転がり通行人が心配して救急車だ。私が病院に呼ばれて腹がたった。忙しいのに何やってるのかと思った。病院に行けば、酔っている。補聴器がないので意思が通じないのだ。ポケットにまりや食堂の電話の書いた紙きれがあったのだ。山谷に連れて帰る。山谷ではそういった人も生活している。山頭火が他人じゃないのだ。最初に出会った頃のNは野宿で薄汚れて、シラミの服だった。山頭火も何年も放浪していて法衣は薄汚れシラミもついていた(p.464)。

山頭火は自由律句の達人で生き延びたのだろう。あれだけ飲んで60近くまで生きたタフガイだ。

仲間も飲む。飲む人生だ。日雇いして夜は飲む。それで人生はお終いだ。それも一生だ。一人一人の一生はそれぞれでよいのだ。あれこれ分け隔てはない。無駄な人生はないのだ。

生きて、生きて最後は死ぬ。戦争は嫌だ。人が無駄に死ぬからだ。正義の戦争なんてないのだ。

山谷の仲間の一生は何か。自分が楽しかったらそれでよいのだ。日雇いは下済みで産業に貢献して報われずに一生を終える。損な役割だが、これが資本主義の仕組だ。日本のマシな点は生活保護や医療保護もあることだ。

山頭火の俳句は素朴でよい。真似をしてみた。

ついに買う命を守るヘルメット

とりあえず旅に出ようかホトトギス

酔い覚めるように鬱きえし

土曜日の高速飛ばすモヤはれし

一人旅自分と話す

スズメもめるなわが庭で

土手染し菜の花群れるジョキング

河原に色テントいくつもイベント

 山頭火 (2023年4月19日)


山頭火を知っている人は大勢いる。何度か山頭火ブームがあったと聞く。今でも山頭火が様々な形で生きている。彼の生まれた防府には山頭火ふるさと館がある。

自由律俳句の代表的俳人。5,7,5や季語にとらわれない俳句だ。大正15年放浪の旅に出る。俳句仲間に支えられ放浪と一時定住を繰り返した。旅と句と酒と温泉に生きた。山頭火の俳句は多くの人に好かれている。

山頭火の履歴を少し追ってみよう。

明治15年、防府市に生まれる。

種田家は大種田と言われた大富豪だった。宅地の総面積は850坪だった。父竹次郎は政治にのめりこみ、女にのめりこみ家を顧みなかった。

25年、母フサは絶望して自殺

少年の正一の心に深い傷を負う。

34年、早稲田大学文学部に入学

彼は優秀だったのだ。俳句、短歌もした文学青年だった。

37年、神経衰弱のために退学

40年代、父は代代の屋敷を売却、酒造場を開業

42年、結婚

43年、長男健誕生

家庭を顧みなかった。多分家庭には関心がなかったのだ。

大正2年、俳句雑誌、層雲に自由律俳句を投稿

層雲の句友と親交を深める。層雲では注目された。無軌道な酒になる。

5年、酒造所破産一家離散。山頭火一家は熊本市に行く。

古書店雅楽多を開業

家業は手につかず、上京したり、文学にのめりこむ。

大正7年、弟次郎自殺

9年、離婚

酒浸りの生活だったようだ。

彼はなぜ酒浸りの生活だったのだろうか。

憂鬱症だったと岩川は言う。その解消で酒を飲む。飲むと泥酔するまで飲み、翌日は自責の念にかられるという。その繰り返しだった。

13年、泥酔して市電を止める。知り合いが報恩寺に連れてゆく。

14年、曹洞宗報恩時望月義庵の下出家得度、僧侶となる。

味取の観音堂の堂守となる。

「松はみな枝垂れて南無観世音」

15年、44歳行乞流転の旅、九州、山陽、山陰と流転する。

これ以来行乞流転の生活になる。多分、この生き方が性分に合っていたのだろう。托鉢してお米とお金を恵んでもらい、好きな酒を飲み、俳句を作り、好きなように旅を続けるのだ。気ままで精神的には良かったのだろう。ずっと日誌はつけていた。自由律俳句も作っていた。

「この旅、果てもない旅つくつくぼうし」

旅を続け、お金が足らず宿に留め置かれたりすると、俳句仲間に支援を頼むなどして生きていたのだ。支えの友人が幾人もいたのでそういった生活が可能だったのだろう。

昭和4年、北九州地方、雅楽多に戻る。再び旅

昭和5年、熊本で借間「389居」で自炊

昭和7年、某中庵に住む、鉢の子出版

11年大阪、平泉まで

13年、56歳風来居に転居

14年、長野、四国、一草庵に落ち着く

幾度か庵で生活するが、これらも俳句仲間の支援ですることができた。

15年、58歳一代句集『早木塔』発刊

この自由律俳句集は素晴らしい。このような俳句の力が友人たちをひきつけ、山頭火が生き延びる力になったのだろう。

10月11日未明死亡。念願どおりぽっくり亡くなる。死因は心臓麻痺だ。

 山頭火 (2023年4月14日)


「ほろほろ酔うて木の葉ふる」

酒飲んでほろ酔いで旅を続けている。秋なのだろう。ハラハラと山頭火の網代笠(あじろかさ)に木の葉があたっているのだ。結構な旅路だなと感じる。

行方定めぬ旅を7年間する。その日の風の吹きようで西、東、最小限度のお布施が入る方向へ、一杯飲める方向へ旅し続ける。(46頁、大山)

山頭火の生命は歩くこと、酒を飲むこと、句を作ること、これが良いとか悪いとかでなくこれが山頭火なのだと著者言う(48頁)

山に入って死なないでいる。町に立って死なないでいる。生きている限り、一歩一歩ただそのまま踏みしめてゆく。(58―59頁)

あてもなく漂泊して行乞して生活している。時には熱が出る。

そのとき読んだ句は(47頁)

「大地にひえびえとして熱のある体をまかす」

この人は強い人だ。めったに熱などでない。一日何里も歩く。10里も歩く。

48頁の生き方は、私の日雇い仲間の生き方だった。

「あるくこと」は行乞のことだ。これが仕事だ。お金やお米を恵んでもらう。仲間は日雇い仕事が仕事だ。山頭火が酒にのめりこむように、仲間も酒だ。毎晩飲む。飲みすぎたら翌朝表に立たない。土日はギャンブルだ。その繰り返しだ。これが良いとか悪いとかでなく、山頭火同様に山谷の仲間の生き方だ。人の一生なんてたいしたことではないのだ。

私が食堂を立ち上げてからは、一緒に飲む機会もなくなり、関係は疎遠になった。皆どうしているだろうか。山谷の中でも会うことはない。生活の時間が違うかもしれない。弁当を買いに来る人の中にたまに昔の仲間の人がいる時もある。

山頭火と仲間の違いは自由律俳句の秀才だったということだろう。まあこれも普通の人にはさほど重みのあることではないから、山頭火と山谷の仲間にそう違いはない。

多分山頭火の方が飲み方についてはすごみがあったと感じている。どろどろになるまで飲む。そういった仲間もいた。これは大変な飲み方で数日飲みっぱなしで、そのあとは路上であれ、どこであれ寝てしまい、倒れてしまい、一日中そうしている。飲まなければ何日も飲まない。そんなアル中だ。

山頭火のすごいことは、料亭などでしたたかに飲み食いして、つけ馬を俳人の仲間のところにつれて来てお金を払ってもらったり、無銭飲食で拘置所に入れられたことだ。本当に半端のない生き方だ。

43歳で得度した、出家したのだ。味取観音堂の堂守となり朝晩鐘を叩いていた。檀家は50軒ほどだからそこからのお布施では生活はまかないきれないから近隣を行乞して生活費を得ていたようだ。そういった行乞が坊さんの特権だからそうのようにして生き方を習得していったのだろう。この鐘叩も一年ほどでやめたくなったのだろう。出奔。あてどのない旅に出る。

「この旅、はてもない旅のつくつくほうし」

熊本の家に帰るがまた旅へ。じっとできないのだ。

愚かな旅人として放浪するより外に私の生き方はないのだと語る(122頁,岩川)

念仏し托鉢すれば何とか生きていけるのだ。彼は出家によってそれなりに生きる方法を身に着けたといえる。行乞して歩く乞食坊主なのだ。

仲間の肉体労働に比べたら楽なものだ。でももらいが少なくて野宿の時もあったと書いてある。野宿は山谷の労働者でもある。

何度か不景気があった。朝表に立っても仕事がないのだ。アブレ(失職)だ。たくわえのない人は野宿だ。ドヤに泊まっている人はまりや食堂の安いご飯を食べ生活を凌ぎ、翌朝できるだけ早く起きて通りの手配師に声掛けして仕事を頼むのだが、顔づけ(古参)が優先だからなかなか仕事にありつけないのだ。こういった点も、生活の不安定さという点で山谷の仲間と共通点はある。

山頭火は根っからの自由人なのだろう。人生はどうでもよいのだろう。生きようが死のうがどうでもよい、と人生を達観しているようにも感じる。いつも睡眠薬を持っているようだ。不眠症らしい。酒があればそれで寝られるのだろうが、金がなく酒が飲めない日は眠剤を使うのだろう。眠剤で数回自殺を図ったらしい。生きることはどうでもよかったのかもしれない。

「しぐるるや死なないでいる」

行乞し、お米とお金を得て宿代が出れば、酒屋で一杯飲んで泊まる、お風呂に入るというような毎日のようだ。自由な生き方それが山頭火のようだ。

歩いて行乞してホイトと呼ばれ、俳句を作り、お酒を飲んでの毎日なのだ。朝から飲む時もある。朝飲んでから旅に出るのだ。

現代は日本中にコンビニがあるからアルコール類は24時間買える。飲もうと思えばいつでも飲めるのが日本の体制だ。山谷では朝からやっている飲み屋がある。8時にはあいている。店の中は狭く路上に机といすを出して飲んでいる。そこは路地だから誰も文句は言わない。朝から飲んでいる。接待のおばさんがいるようでそれで人気があるようだ。

山谷は今は労働者の街ではないような気がする。はっきりわからない。飲んでいるのは生活保護者なのだろうか。ドヤやホテルに泊まっている人たちなのだろうか。ドヤ住まいの労働者なのだろうか。はっきりしない。ドヤのほとんどは生活保護者と聞いている。女日照りだから、接待のおばさんがいればそこに行くのだろうか。

朝から路上で飲んでいる人もいる。私も晩酌はやる。さほど飲めないが飲む。それだけに山頭火の生き方が気になるのだ。

飲んで飲んで、木賃宿に泊まり食事も粗末だったろう。旅を続けて時には病気もしただろう。7年にわたる漂白流転、旅を続けているのだ。浮き草のように岸から岸に乞食坊主として一生涯流転せざるを得ないと山頭火は自己を語っている。行乞し、歩いて、飲んで句作して、泊まって温泉に浸かって、俳友から金を借りて、これが山頭火のスタイルなのだ。歩けるだけ歩き、行けるところまで行くのだ。気楽と言えば気楽だ。

山谷の私の労働仲間も皆そうだった。日雇いをして、夜は酒だ、土日はギャンブルだ。ドヤに泊まり、朝早く起き、仕事を得て一日を働き、出づらをもらい風呂に入り酒だった。その繰り返しの人生で行けるところまで行こうというのだ。多くは故郷を捨てているから死ねば無縁仏と覚悟を決めて、好きなように毎日を歩く。多くは年を取り今は生活保護を得て、細々と生きている。その生活保護者を支えるためにまりや食堂は安い弁当を提供しているのだ。

変な話なのだが、私は仲間の労働者が生活保護になっても少しでも文化的生活を送ってもらいたいと願い食堂を作ったのだ。彼らのためには定食350円で。野宿者やあぶれた場合に凌ぐために生卵定食200円を作った。(現在は弁当屋をしている。一番安いのはのり弁当130円。次に卵焼き弁当160円。定食は250円から400円まである。ご飯の量が多いのが特徴)

生活保護の金は10数万だろうから、まりや食堂の安いご飯で金を浮かし、週末は好きなギャンブルなどで人生をエンジョイしてもらいたいと願ったのだ。私は伝道のために山谷に入ったが、なんといっても山谷は飯が問題だった。だから少しでも仲間を支えるのは聖書と祈り以上にご飯なのだ。それで安い食堂を作ったのだ。

弁当販売窓口ではめったにギャンブルの話は出ない。皆すまして買いに来るが、来る人は酔ってない人が大半だから、きっと酒のみではなくギャンブラーだと思う。今日来た常連のおじさん(本当はお爺さんだが気持ちは若い、だからおじさんだ)だが「今日やられた」というので聞くと競馬ではなくて競艇だ。江戸川だ。「9900円を取り損ねた」と残念そうだった。「金がなくなるのを怖がっていたらギャンブルはできないぞ」と威張っていた。昔仲間に江戸川のプリンスというのがいた。競艇一本の仲間だった。金があれば行くのだ。江戸川には競艇場があるのだ。

山頭火は行乞で生活費を稼いだ。年を取り行乞をやめた後は相当な貧しい暮らしになった。時折は俳句仲間の応援があっただろうが、たぶん金の援助はみな酒代に化けるから常に貧しかっただろうと思う。

行けるところまで行こうとは私の事でもある。

目に付く記事が新聞にあった。かいつまんで紹介する。

見出しは「生きているだけで革命」(朝日新聞夕刊2023年4月12日)

「生存は抵抗」とは生きているそのものが抵抗という意味だ。今生を軽視して人を生産性で測っている。そのような世でただ存在して生き延びることは常に革命的だ。ここでいう革命とはそこに存在するだけの生き方が開かれた社会、何かを強制されることのない社会等を目指す営みを言う。

私は存在するだけで価値がある、意味があるという考えがすごいことだと思う。創世記で神が人間を創ったという思想は人間が被創造物として平等だという思想になるのだ。神の創ったものとして存在そのものが尊いのだ。そう考えれば山頭火などは、その存在はすごく大きく感じてしまう。行乞して生計を立て、句作して、飲んで、自分の生き方を徹底している。金のないときは他人に寄りかかっている生活もまた一つの生き方だろう。

山谷の日雇い労働者は社会に大いに貢献している。一般の人は知らないだけだ。私が体験したのは池袋駅の東西抜ける通路の工事だ。上の駅を鉄骨の柱で支えて地下を掘りぬくのだ。これは大工事だった。鉄骨で駅を支えているから、重機で掘れないので手堀だった。ベルトコンベアを何台もつないで表に残土を運び出すのだ。だらだらとこの仕事はできないので、監督と相談して今日の掘削を何リューベとか決めて掘方は仕事にかかる。こうして人力で東西の地下道を作り上げたのだ。山谷の日雇労働者が掘りあげたのだ。

多くはもう年を取り生活保護となっている。老後を楽しく過ごしてもらいたい。多くの仲間は酒やギャンブルで存在の豊かさを追求しているのだ。山頭火にとっても行乞、句作、酒は存在の豊かさを示しているのだ。なんともすごい人生だと思う。

 山頭火 (2023年4月7日)


分け入っても分け入っても青い山

私には謎めいた感じの句に思える。

得度して堂守となる。転生と著者は言っている(p.109)。でも著者(岩川)は山頭火の

生き方に批判的だ。転生とはでなにを言いたいのか。

これについて大山澄太『俳人山頭火の生涯』が参考になった。

電車の珍事を契機に悩ましいふしだらな前半生を滅却し去りよき和尚を師として新生の道を歩み得度し、出家したのだ。時44歳だ(p.18)。やはり転生なのだろう。


一年にしてそこを去り越前に向かい行方知れずになる。行乞流転の旅に出る。

「分け入っても分け入っても青い山」という心境だったのだろう。

山頭火には、幼いときの母の自殺、家の破産、おやじの放蕩三昧、弟の自殺等に翻弄された生き方だったのだろう。そういった状況を打開する方法もなくある時は泥酔していたのだろう。電車を止める事件を契機に寺に入り得度したのだ。

韓国語のハンの状態ではなかったか。人生の長い旅路でどうしようもない運命に翻弄され、さいなまれ、苦しむ。その旅路でひもの結び目のように結ばれたものそれがハンだ。あるべき姿とそれへの挫折の無念がセットになった感情がハンなのだ。(p.4)

「心で知る、韓国」


村上護は『山頭火 漂泊の生涯』(春陽堂)の中で出奔の動機を書いている。

解くすべもない惑いを背負うて旅に出て、歩き続ける(p.113)。 そういった結び目を解こうとしていたのではないだろうか。それが行乞と句作だったのだろう。残念なのはきっとアル中なのだろう。時々大失態をおこすのだ。旅においても、酒も飲むから生活は厳しいものがあっただろう。

行乞し木賃宿に泊まる。宿代と飲み代、女も買ったらしい。作句は呼吸と同じだ。

愚かな旅人として放浪するより外に私の生き方はない(岩川、p.123).一定に定住できないのだ。これは本音なのだろう(菊地)。

3時間の行乞で食えるうらやましいと(岩川、p.125)。


句を作るはやめるわけにはいかない。あるいた(p.128)。風呂浴び、酒飲み、温泉、旅、温泉すき。(p.131)。

托鉢ができるのは袈裟(けさ)の功徳(くどく)だ(p.135)。

あるかない日はさびしい、飲まない日はさびしい、句を作らない日はさびしい。時に躁鬱になるのだ(p.143)、時に自虐的自分を責めるのだ。

こういった生活、日常性がショウにあっていたのだろう。だから、堂守は良いのだが、食べていけるし、本も読めるし、ただ一人で寂しいのだ。ぽつんと一人でいることに耐えられずに一年にして出奔したのだろう。

なんとか結び目を解こうとする行乞の人生だったのではないだろうか。だが結び目が解けずに亡くなったのかもしれない。


「分け入っても分け入っても青い山」

「山を越え、山に分け入り、分け入り、無限につづく山を毎日毎日旅してゆく。何を求めて山に入ってゆくのであろう、行っても行っても山はいよいよ青くなるだけで、呼べども呼べども答えない。」(大山、pp.25-26)と大山はこの句を解説している。山頭火はこの句が気に入っていてよく短冊に書いたそうだ。

これが山頭火の人生だったのだ。たくさんの支えがあったから最後まで山は青かったのだ。枯れ枝のたくさんある荒れた山ではなかったのだ。呼べども答えがなかったのではなく、呼べば友が助けてくれたのだ。


この句は私の人生でもある、また人生としてあり続けている。導かれ山谷の山に分け入ったのだ。山谷伝道に行ったというより、やはり山谷に入ったというのが実感だ。

山谷の人にはなれなかったが、同じ日雇いをしながら山谷に分け入り分け入り、友を作り、日雇いをしたり、共に酒を飲んだり集会を開いたりして山谷に分け入っていったのだ。

行っても行っても山は青い。山谷もそうだ、変貌しても山谷はあり続ける。決して枯れない。

今まりや食堂の弁当屋をしているが、客人はどんどん変わるが継続している。後継者は現れないから、呼んでも呼んでも返事がないのだ。

 山頭火 (2023年4月4日)


分け入っても分け入っても青い山

自己肯定、自己否定の矛盾の中で旅に出る。得度(とくど)の身だから行乞(ぎょうこつ)して金を得、米を得て木賃宿泊し、飯を食い酒を飲み、句作し青い鳥を見出すことを夢見て歩き続けたのだろう。

放浪の俳人というところだろう。生活無能者と切り捨てられない。自由律俳句界の優秀者ということで仲間が支えたのだろう。それによってたくさんの俳句、よい俳句もできたのだ。死後見直されてたくさんの俳句が人の心を楽しませてくれるのは良いことだろう。仲間が最後まで支えたのは人徳というべきか。彼はアル中だったのかもしれない

それぞれが生活していく中で、人の飲み代までしりぬぐいするのはたまらないだろう。それを幾人かの俳句仲間は受け入れている。単に友情という以上に非常に懐の深さを感じてしまう。この人をだめにしてはならないという使命感まであったにちがいない。

こういった人たちがいなければ山頭火は野垂れ死にしたに違いない。

私とて人に支えられてこの仕事をしている。だからこれを壊さないようにしなくてはならないが、格好つけてもしょうがないのでありのまま発言し感じるままに行動して今日に至っているからこのまま続行だ。いずれにしても人の輪によって支えられている。これは山頭火と変わらない。私は神の懐の深さによって支えられているのを感じる。

イザヤ書43章8-15節では、「神の言葉を聞かないし、神の出来事も見ない民なのに、神は神の証人として立てるのだ。そういった民なのに神は主の僕とし選び、救い出したのだ」。ここに神の懐の深さがある。私も神の懐の深さを感じている一人なのだ。

それだけに山頭火は面白いと思うから、この人の生き方を追いながら山谷の仲間たちと私の生きざまを比較しながら展開したいと思う。

山頭火は無銭飲食や酔っぱらって路上で寝たりと自由な生き方を生きていた。通勤で朝家から山谷の街に入れば、路上で縁石に座ったりして酒盛りだ。自転車の後ろに一杯カンを乗せた袋を運んでいる人もいる。路地に入れば大きなバックに腰かけて寝ている。まりや食堂の筋向かいのコインロッカーに大きなバックを押し込んでいるおじさんがいる。多分昨日の野宿のモーフをしまっているのだろう。あるきながら常にワンカップを飲んでいたおじさんは最近見かけない。あれだけ飲めば肝臓がやられ入院とか様々なことが考えられる。山頭火のような人も山谷にはいたし、いるのだ。

俳句については、自由律俳句は良いと思う。私は定型季語の俳句だが、自由律俳句で境涯を広げ句作に励みたいと思う。

「老木の花のさびしい我もさびし」(菊地弦)。弦は私の俳号

老木の桜が伸びすぎて上の方の幹が切られ、下の幹につながる細枝の桜が寂しかった。私も今いる場所は三日間一人だからやはり寂しいのだ。

支えられていることについてもう一言、神の加護が強力だ。イザヤ書43章は絶大だ(24b節―25)

「あなたの悪のためにわたしに重荷を負わせ、あなたの背きの罪をぬぐい、あなたの罪を思い出さない」。私は神の絶対的愛に支えられこうして生きている。

山谷におけるまりや食堂を取り巻く支えの輪は、ひとえに神み言葉によって呼び出された人々の輪なのだ。

山頭火の晩年の俳句は良い。

「おちついて死ねさうな草萌ゆる」山頭火

私の道は私の愚をつらぬくよりほかにないと言う(岩川隆『どうしやうもない私』講談社458頁)。

私はこの句が好きだ。落ち着いている。雑草をみて、雑草が生き生きとしている。

私も春が来ると忙しくなる。庭の雑草を時々刈らねばならないからだ。今は鎌ではなく、ぶんぶん回る機械で刈る。楽だが気をつけないと足を切ってしまう恐れがある。機械は楽だが怖い。雑草は本当に勢いが良いから、刈っても刈ってもすぐ伸びてくる。

山頭火が「草萌ゆる」と詠うのはそういったことのことだろう。雑草のようにしぶとく生きて愚をつらぬくのだ。一草庵の周りには雑草がわんさと生えている。もう行乞はしたくない。草花を見ながら句作して、旅先ではなくここで死ねそうなのだ。

愚をつらぬく。それは酒だ。行乞しなくては酒は飲めない。友が来なくては酒が飲めない。タバコは拾えるが、米は拾えない。

酒、酒、酒、アル中だからどうしても飲みたい。飲み屋に行く。飲んで飲んでどろどろまで飲む。つけ馬と友の家に行き払ってもらう。それが山頭火の生きざまなのだ。愚に徹している。持つは良き友達だ。

 山頭火 (2023年3月26日)


「わけいってもわけいっても青い山」

山頭火は味取観音の堂守を捨て果てしない旅に出る。

これは山頭火の有名な句と言われている。いくらわけいっても山が続いている、いわば人生の苦労を言っていると理解されているらしい。私にも「わけいってもわけいっても」はわかる。登山でもこんなことはある。人生はこうだろう。幾多の様々な出来事が待ち構えているからへこたれず分け入らなくてはならない。

私には「青い山」の「青い」が気になる。岩だらけのひどい山ではないのだ。鳥も囀る木の茂った山山なのだ。岩川隆は(116)はロマン的、果てしない道に対象を求めていると言う。たしかにこの「青」にはそこはかとなくあわい希望を見出す。

山頭火は放浪の人と言われるが禅宗の得度(とくど)を得たれっきとした坊さんだ。多分、生活は行乞(ぎょうこつ)つまり托鉢(たくはつ)だ。それで生活費を稼ぐのだ。

山頭火は堂を出て4年ほど行乞をしながら放浪する。岩川は家族のことなどどう考えているのだろうと批判めいたことを言う(116)。たしかに、山頭火は旅をして作句三昧なのである。こういった生き方もあるだろう。俳句が生きがいなのだ。4年ほど放浪して、家に戻っても落ち着けなく、神経衰弱になり旅に出る。多分生活破綻者なのだろう。よく言えば自由人だったのだ。家には奥さんと息子一人がいる。生活は我楽多屋という店を開いていた。

旅に出て、稼ぎがなければ野宿だ。それにたかりだ。つまり自由律俳句仲間では一目置かれていた。ただ、生活面では飲んだくれ、アル中、放浪癖などなかなか厄介な生き方になっていたが、仲間は承知していた。だから訪ねて来れば飲ませ、泊め、小遣いを上げるといったつながりがあった。それを承知の山頭火だったのだろうから人生は何とかなるという、達観というか捨てているというかもうどうでもよいという人生観だったのだろう。だから今から行乞風来の旅に出るのに、この句には悲壮感は感じない。私も俳句をかじるから悲壮感であれば「青い山」をもっと否定的な表現にするだろうと思う。山頭火の生きざまから切り離してこの句だけを見れば、人に希望を持つようにと勧めているような温かさを感じる句だ。それで好かれるのだろう。

私とて山谷に入ったころはドヤやアパートを借りるなどして家には週末だけ帰るところがあった。子供の面倒は妻が見ていた。私も家庭を顧みないひとだったのだろう。

山谷に招かれ山谷伝道にとりつかれていたのだった。家庭を顧みないわけではなかった。

ただ、子には父らしい父ではなかったのだ。この年になり子供も結婚し孫もいるが、少し父らしいことをし始めている。子供を少しは楽にさせたいとも思っている。老いては子に従えとのたとえになりつつある。山谷の私のホームページは子供が面倒を見ている。私が原稿を書いて、ネットに上げる作業をしてもらっている。先先はもっとそうなるだろうが、できるだけ自立して生きていきたいと思う。