すべての存在と共に (2020年12月4日)


ファン・デグォン『野草の手紙』(自然食通信社)を紹介し、感想を述べる。

 この人は韓国人で海外留学生スパイ団事件に巻き込まれ、あらゆる拷問を受け無期懲役刑を科せられ13年2か月後に釈放された(249頁)。その間独房生活を通して体験実践してきたことをこの本を通して紹介する。この人の特異な体験から学ぶことは貴重だと思う。

 「投獄から5年無実を訴え続けてさまざまな抵抗を試みたがすべて失敗に終わり、ファンは心身ともに疲弊しきっていた。絶望の淵で彼はふと刑務所の片隅にそっと生きている虫や雑野草に目をとめた。そしてそこに自らのいのちと連なる生命の営みを見出したのだった(9頁)。」

 想像さえしない罪名に無期懲役という刑に独房でもがき体を壊し、ただ生きるために刑務所の庭の育っていた雑草をむしりとって食べ始めた。ほぼ草を毎日食べているうちに草を研究するようになり草の中に生きる小さな生き物と親しくなった。雑草を食べ元気になった。人間の文明は彼らの助力と犠牲の上に成り立つという(268頁)。

 彼は無実の訴えをさまざまにしたが取り上げられず、独房生活の5年ほどして、自分がしがみついていたものが無意味だと思った時に新しい道が開けた(10頁)。新しい道に導いたのはありふれた野草や虫たち微生物たちだった。それらが息づく低い場所に降り立ち交わりを通して彼は甦ったのだ(10頁)。

 一坪の部屋で自分が宇宙なのだと感じ、部屋を飛んでいるハエ、垂れ下がっているクモも自分の身体の一部、自分が接しているあらゆるものが自分の身体の広がりと認識したという(257頁)。

 身体の一部というのだから、自分の手足と同じ感覚なのだ。自分の手足は大事にするから、同じようにその虫たちも大切に扱うということなのだろう。やはりそこにあるのは共生だ。対等に平等に生きる生き方なのだ。あらゆる存在とつながっていると上で述べた通りなのだろう。

 そういった小さい存在の息づきについて「私は想像しました。わたしが吸う息のなかにはこの世に存在するすべての生き物たちが吐いた息がある。そしてわたしが吐き出す息を他の生きものたちが吸う。呼吸を通じて、存在するすべての生きものたちとつながっていることを、わたしは感じました(11頁)」。

 私はそこまでは思えないが、私は年だしそう長くは生きられないから、小さな生き物に心が行くのだ。それで小さな生き物や野草に興味を持っている時にこの本に出会ったのだ。

 「人間だけでなくすべての生きものが、この世界を美しくするために生まれてきた存在なのです。道端の草や花、その間に生きる虫、そして人間。すべてが同等の価値をもっています。みんな“命の饗宴”というパーティーに招待された存在だと思えばいい。そしてそのなかで自分の居場所を見つけさえすればいいのです(11頁)。」

 すべての命の賛歌を

 どちらかというと迷惑がられる野草について「野草が成長してゆくようすをじっくり眺めてみましょう。けっして、意味もなくそこに芽生えたわけではありません。よく言われることですが、神がこの世を創造されたとき、不要なものなどひとつもつくられませんでした。野草も同様に、すべて自然が、その大地が必要としているからこそ、その場所で育っているのです(257頁)」。(253頁)雑草にも生きる権利があるのだ。

 私は畑がたがやされ黒々と一面に展開しているのを時折見かけるが、少し気持ち悪いと感じている。青いものが一本もないような土ってあるのだろうかと。実際は肥をすきこんで青菜を植え付けるための畑なんだ。でもなんだかこれは土を痛めつけているのではないだろうかと感じる。

 畑が、自然の状態ではなくて、人工的に野菜を生産するための機械的な物質に変えられているような感じがする。雑草は一本もなく、種をまき肥料を上げ、太陽の光線を浴びてものが生産される。なにか偏った土地の使い方のようだと感じて仕方がない。

 農民は言う。わたしが植えたものは作物で、わたしが育てて食べるのもまた作物だ。おまえはわたしが育てて食べようとする作物の栄養を横取りし、栽培の邪魔ばかりする。つまりおまえはわたしの利害に一致しない敵なのだ。わたしが生きるために申し訳ないがおまえたちには死んでもらう(250頁)。こうして雑草は虐げられ農薬でみな枯れた。その結果、その草を食べていた動物生物も死に絶えます(250頁)。今や世界的に農薬の害が問題になっている。

 だが、私には矛盾がある。こんな感想を畑に持っていても、様々な人から野菜の支援がある。農業をしている人や、個人菜園や様々だ。そういった支援で安い弁当に野菜たっぷりの弁当を作り上げられるのだ。でもできるだけすべての存在が大事にされるような自然でありたい。

 存在はすべて同等の価値を持ち共に生きる存在なのだ。この人の言う、生き物が皆共生しているのだと考えるのには共感できる。生きものはみな同類なのだろう。自分が飼っていた犬が二匹ともすでに死んでいる。けれどもいつも二匹の犬を思い出す。自分の仲間だったような気がする。ある時ハエが食卓にまとわりつき離れない。不潔なので追い払うがだめだ。なにかその時にもしかするとこれは雄太(犬の名前)の生まれ変わりかなと思ってしまった。なぜかというと、親しげに私にまとわりつくからだ。何とか追い払って済んだ。

 私はファンさんの発言から聖書の「山上の垂訓」の「思い悩むな」という個所について考えてみたい(マタイ6の25-34)。

 天の父は鳥を養ってくださる(26節)。野の花を着飾っている。それは神がそのように装ってくださっているからだ(30節)。ましてや神はあなたがの面倒を見ている(30節)から、思いわずらわずに、まずは神の義を求めよ(33節)というのだ。

 野の草花については、「あなた方」との比較の対象として言っているので、これらが中心話題ではない。しかし、神はこういった草花をも目に掛け成長させてくださっているというのだ。結局のところ、そういった存在も神の面倒で成長し、中心的な人間も神が面倒を見て成長しているのだ。したがって、神はその意味ですべての面倒を見ていることになる。

 この人はこういった生き物と共生が大切だと説くのだ。これによって地球が存続することになるんだというのだ。今共生が唱えられている。地球を守るために。その思想の一つとしてこの考えもありなのだ。小さい命を守ることが地球を守ることなのだ。






 


命を削る
 (2020年12月4日)

車で山谷に通勤するが、山谷の道路の一角の歩道の縁石でコップ酒を飲んでいる男を毎朝見かける。この調子で一日中飲んでいるのだろう。少し弱ったようだ。以前は歩きながらコップ酒を飲んでいた。それ以前はまりやの前で会えば気軽に挨拶していた。今見かける彼は色が浅黒くなり、しゃがんで飲んでいる。元気がなさそうだ。多分だいぶ内臓がやられているのだろう。

山谷は酒の街でもある。今は泥酔して路上で寝ている人はほぼ見かけなくなったが、朝から昼からよく飲んでいる。自動販売機のそばで飲んでいる。今はもう見かけなくなったが販売機の横で朝いつも飲んでいた人がいた。見るたびに頬がやつれてきた。多分酒と心中するつもりなのだろう。

その気持ちはわからないわけでもない。わたしも晩酌を欠かせないからだ。まあでも入院となれば、酒を断っても平気だからまあ良しとすべきだろう。

最初に触れた人などは、長年見かける山谷の人だが、何か命を削りながら飲んでいるような気がしてならない。少しずつ命が酒によって削られているのだ。多分一向にかまわないので命の最後の一片まで飲んで、満足して自然に帰っていくのだろう。

そんな人は以前もいた。怖い人だった。乱暴者で問題飲酒者だった。いくら酒に強くてもいつかは内臓がやられる。いつからか山谷から姿が見えなくなって、ほっとしている。

日本人は飲み屋が好きなようだと、コロナの件で感じた。感染源の一つが飲み屋で自粛が要請されている。上で述べた縁石で飲み続けている人の例は別に山谷だけでなく、日本中のどこでものことなのだろう。普通の人は目立たないようにしているだけだ。飲み屋がやたらはやることによって、そこがアルコール依存症の予備軍の造成場になる危険性はある。それぞれ自分の力量で飲むのだからとやかく言えないが、早くワクチンが使用できるようになればありがたいと思うだけだ。