いっぽくん (2019年11月4日)


犬の勇太は年を取り、熱中症になり、薬害になり、腫瘍が鼠径部にみつかり、かなり大きく、その影響で後ろ足がむくみ尻尾は垂れて、あがらない。そういった具合で散歩はおしっことうんちをすれば家にユータンだ。最近少し調子がよさそうなのに、同じパターンなので私は勇太のあだ名を「いっぽくん」と命名した。それは、その歩きが散歩(3歩)とは言えず、せいぜい1歩(いっぽ)ぐらいだからだ。朝、「『いっぽ』散歩だよ」と笑ってしまう。

けれども事態は笑うような状況にはない。今の勇太の腫瘍はなぜか小さくなっている。また大きくなることは十分考えられるので毎日ハラハラしているが、ある程度は覚悟はしている。老犬で人間の80歳だから、そう長生きもできないから、腫瘍の悪化で死ぬことも覚悟しなくてはならない。もう切れないし、人間と同じようにホスピスで痛みをうまく取ってもらい命を終わらせたい。

だが、動物病院の医者との関係が最悪で良心的な医者を再び探さなくてはならない。今の医者は半年前に初めてかかった。それは長くかかわっていた動物病院が閉鎖したからだ。

3週間前、勇太の足のむくみが気になり、病院に行ったが足を触っただけで経過を見るということで2週間後に行くことにした。少し前から気になっていたのは左鼠径部の皮膚が透けて見えるのだ。もともとそこは毛が薄いのだが、それにしても変だと思い、そこに触れてみてびっくり仰天だ。腫れているのだ。そっと押すと皮膚の下に塊がある。直径10センチぐらいだ。これはがんだ。勇太は以前に睾丸に悪性腫瘍ができ去勢した。きっと体内に潜んでいたのが動き出したのだ。

これで一連の勇太の具合の悪さがはっきりした。夏に一週間食事をせず、病院で熱中症と言われ緊急入院した。その時すでに腫瘍が勇太の体を痛めていたので、この病気になったのだろう。そのあたりでもすでに足にはむくみがあった。腫瘍が鼠径部を圧迫してのことなのだろう。

熱中症が回復し、沢山の薬をもらい退院した。熱心に薬を飲ませ、その後病院で血液検査をしたら肝臓がひどく悪いのだ。ここは血液検査をよくするから、前のデーターで状況がすぐわかるのだ。

薬害だ。これで一気にこの医者に不信を持ち始めた。要するに薬の飲ませすぎなのだ。笑っちゃうのは、今度は肝臓を守る薬を出したのだ。あまり飲ませなかった。食欲が出てきて、指定の日に病院を訪問したが、肝臓の検査のための血液検査は断った。途端に医者の態度が急変した。検査は費用が高く病院の稼ぎ頭なのだろうが、私はお金の出し惜しみではなく、過剰な検査は必要ないからだ。検査で肝臓が悪くてももう薬は飲ませないつもりだからだった。

ところが足のむくみがひどく、二日後に病院に行けば上で述べたように後ろ足を触診しただけだったが、その後腫瘍を発見したので、急ぎ病院へ。医者の扱いが乱暴で勇太を抱きかかえるのに腫瘍のあたりを持ち上げたので悲鳴を上げた。ひどい医者だ。超短波の検査で下腹部に塊がある。

腫瘍を抑える一番弱いという薬をくれたが、家では飲ませなかった。もうその医者の薬は信用できないからだ。食欲はなく、ささみを上げたら食べた。芋も食べる。パンが好きだ。納豆も、それで人間の食べ物と病気用の缶詰をあげた。一週間たちうっ血している患部を見ると、きれいな皮膚になっている。腫れも引いている。これは不思議だ。   

ドックフードをやめたのが主な原因かもしれない。ドックフードがよくないことは巷ではよく聞く。それでうちではかなり高いのを買っていたが、リスクは避けられなかったかもしれない。あるいは全くの偶然かもしれない。

一週間後、病院へ。薬は食欲不振で2回しか上げていない、腫瘍が小さくなったようだとこもごも説明する。医者は不愉快な顔で直すために薬を上げているのに、それでは来てもしょうがないと、ぶすっとしている。状態が改善したのだから喜んでくれてもいいのになーと、内心この心の狭い医者を嘆く。

多分、立場がないのだろう。薬を飲まないのに病気が改善しているし、それにひどいむくみで連れて行った時に単なるむくみだろうと、きちっと体を見てくれなかった。その後すぐに腫瘍に、私は気が付いた。この医者にも勇太の病歴の書類は渡してあるが何もみてはいなかったのだ。

歳だし、好きなものを食べさせ腫瘍がひどくなってきたら、痛め止めでも打ってくれたらありがたいですと医者に言えば、まともな返事をもらえず、さらに前に行った時に腫瘍から体液を取っていたから、腫瘍はどうなんですかと聞けば、何も調べていないとけんもほろろの対応だ。頭にきているから何も教えたくないのだろう。本当にひどい医者だ。こういう医者が生き延びるのだ。検査だ、注射だと言って結構高い金をとる薮医者なのだ。

勇太にはホスピス用の違う医者を捜さなくてはならない。基本的には薬は何もいらない。自然食で生きれるだけ頑張ってもらう。私と歩める間は一緒に人生を謳歌するのだ。

チェルノブイリの祈り(2019年10月13日)

『続 この器では受けきれなくて』が思いのほか売れなくて、出版社からの申し入れで、たくさんこの本を仕入れました。半額(定価1800円)で手に入れましたから、私としてはもっと安くして一冊500円でお願いしますので、まだお読みでない方は良かったら手にして、読んでいただいたら幸いだ。一冊500円です。

すでに読まれた方々は良かったと言ってます。内容的には、サルトルなど少し難しいところもありますが、4章の「アウシュヴィッツの普遍性」で取り上げたフランクルの「夜と霧」で述べられている「どんなときにも命に然り」という生き方が今の社会に必要なことだと思っています。

収容所では過酷な重労働と餓死寸前の少ない食事のために、いつ死んでもおかしくない状況の中でも、フランクルは「その状況が私になにを期待しているのか」と問い、それに応えていくために、死に行く現場でも、命が続く限り生きていこうと意欲する。

小見出し「チェルノブイリの祈り」は福島原発と繋がります。チェルノブイリの原発大事故では、現場の消防士が全員死亡し、消火にあたった兵士が幾人も死亡するという、多くの悲しみがありましたが、そこにはかすかな希望がありました。もし彼らの英雄的行為がなかったなら、より大きい惨事になったはずだ。だから彼らの生き方は未来を見据えた歩みだったのだ。何人も放射能の害で自殺しており、生きるのは大変だが、ある母親は障害のある子と共に今日を生き、明日も生きていく。この事実こそ未来を示しており、かすかな希望を抱かせる。この本のサブタイトルは「未来の物語」となっている。  

福島原発も多くの悲しみがありましたが、少しずつ復興に向けて進んでいることは幸いです。ただ今後のことを考える時に日本の原発は廃棄に向かって行くべきだと考えます。

山谷の現場のこととしては長くかかわった永伊さんの事やまりや食堂の窓口の弁当販売を通して見えてきたおじさん達の姿などが生き生きと描かれています。
                               山谷兄弟の家伝道所

続 この器では受け切れなくて―山谷兄弟の家伝道所物語

菊地 譲(著)

2018年7月20日発行
四六判・368頁
発行 株式会社ヨベル


まりや食堂で500円(税込、送料込)でおわけします。電話・Faxでご連絡ください。
連絡先 まりや食堂    電話/Fax 03-3875-9167

すきにかえる(2019年9月30日)

惨敗:意志力

完敗に唖然とした。スノーボードが十分にできるし、サマーゲレンデも少しはできていると思ったのが間違いだった。原因は根本は技量なのだが、条件が悪かったかもしれない。まずレンタルボードで慣れていないことが、エッジがブラシにひっかかることになってしまい、転倒するとグランドは土と一緒で思いきり痛いので、転ばぬようにと思うと足元がもううまく斜面に乗っていないようでまた転倒だ。地面にたたきつけられて体が悲鳴を上げている。
1時過ぎに引き上げたが、尻にはあざができ、左肩は強く地面にあたったせいか腕が上がらない。上げようとすると痛みがある。本気の捻挫をしたみたいだ。帰り道ドラックストアでシップ薬を買い、パーキングで張り付ける。すぐにでもテニスのレッスンもあるから痛みを取っておかなくてはならない。
加齢のせいもあるのだろう。明らかにこの前に比べて滑りが下手だ。もちろん一年間滑っていないにもかかわらず、いきなりリフトで上にあがり滑ってしまったのにも問題があったのだろう。残念ながらこの機会にサマーゲレンデからはおさらばすることにした。
大きな原因は転倒すると強烈に痛いし、怪我が生じる可能性もあるからだ。怪我すると先の様々な予定に支障をきたしてしまうからだ。
それにしても今回の計画と実行は評価している。ワンちゃんが病気になり、泊りがけで連れていくことができなくなり、迷ったが日帰りのサマーゲレンデを楽しもうと、早朝家を出て、3時間の運転後、滑って、軽い怪我をして、帰宅の運転、帰館だ。ハードスケジュールだが老いた身でも、実行できたのはうれしい。大切なのは企画しそれを実行することだ。それによって人は強い意志力を養うことができるのだ。

点滴(2019年9月18日)

勇太がガクッと年を取った。14歳だ。人間の80歳だ。犬は人間の一年が5年に相当する。すごい飛び級みたいだ。平たく言えば人間に換算して、約2か月で一つ歳をとることになる。人生ならぬ犬生を、犬は駆け足で進んでいる。
先だってまでカートに自分の力で飛び乗っていたのに、もう後ろ足の筋肉が衰えて飛び上がる力が弱ってしまい、私が抱えて乗せるのだ。そしてホームセンターの中でショッピングだ。それでも孤独が好きで、「かわいいね」なんて手を出すものなら噛みつく。そばに寄りすぎれば吠える。そのあたりはまだまだ甲斐犬の面影が残る。顔面には白髪が増え、眼力は弱い。私はひたすらこの犬に尽くしている。悔いが残らぬように支えている。時々口の周りがあれるので、医者からのお薬を毎朝塗っている。ついでに私も足の爪にお薬を塗るのを常としている。散歩も嫌がる。うんちとおしっこをすればそそくさと家に向かいUターンして帰ろうとする。出ていく時はいやいやなのに帰りは早い。帰れば食事が待っているのを知っているのだ。調子がよい。急速な老け込みに、もうそんなに長くは生きられないだろうと直感する。できるだけ一緒にいてあげる。
かく言う私も老いてきた。終活に向かっている。やり残しをできるだけこなして、後を汚さないようにしていきたいと思う。頑張って生きて、ぽくっと死にたいものだ。知り合いは、前の日まで元気で次の日ぽくっと逝った。
勇太は食事が終われば直ちに寝る。一日の大半を寝て過ごす。もう番犬は下りている。人の気配がしても起きない、当然ほえない。寝ることによって体力の消耗を減らしているのだろう。
犬が危ないようだ。歳をとるとある時に年以上にぐっとふける感じだ。もう普通には歩けない。ゆっくりゆっくりだ。
死ぬのは辛いが、もう悲しくはないと思う。ただ寂しいなー。
勇太はもう死の準備をしているようだ。私の方にその心を整えさせてくれているようだ。もう目に光はないが、柔和な目をしている。遠くを見ている。
甲斐(前に飼っていた犬の名前)と一緒で夜中にうろうろして何か死に場所を捜しているみたいだ。
夜中にもどした。もうだめかなと思った。病院は閉まっているし、このままだと思った。
気持ちの上で見捨てている。次の日は横になったままだ。ご飯は食べない。私は山谷へ。夕飯も食べないようなら夜に病院へ行くことにした。病院へ行くと、熱中症と言われた。体温は41.2度だ。ぐったりしている。自転車の荷台に乗せて家内と運んだのだが、危ないかもしれないと言われた。点滴で泊まりの入院が良いのだが、人になれない勇太なので夜の10時に引き取ることにした。行けば少し目が元気だ。よたよたしている。翌朝また行った。よたよただが昨日よりはましだ。今日一日入院点滴だ。調子を見て昼頃か夜に退院する。
医者は今日に関しては、最初は入院のことは言わなかった。それは分かる。昨日の費用が2万5千円だからだ。今日また入院すればそれだけの費用がかかるだろう。だから自分の方からは切り出せないのがなんとなく分かる。勇太は自分で死を振り切って生きようとしている。だから、できるだけ長くその日病院にいるようにお願いした。これで何とか命は保つだろう。9日の夜の甲斐の状態と同じ時は、私はもう勇太を見捨てていたと思う。実際病院はやっていないし、救急車もないし、14歳だからもういいだろうと思ったのだ。でもこうして症状が少し良くなって生きようとしているので、何とか元気にしてやろうと病院にはお金をかけようと思っている。
今から何年生きるかわからないが、今回は熱中症というのには参った。気が付かなかった。前日まで十分な食欲があったからだ。ただ、少し後ろ足がむくんでいるのには気が付いていたし、クーラーが効いているのに「はっ」、「はっ」、と細かく息をするのはどうしてなのかと思ってはいたが、それが熱中症の兆候だったと今分かった状態だ。
犬は人間の5倍の速さで全てが動くから、悪い時はあっというまに悪くなるし、良くなれはすぐに良くなるだろう。
4日経つが餌は食わない。点滴をしてもらう。医者は食べなくても大丈夫だと言う。熱中症からくるさまざな病気が怖いと4種類の薬をくれた。シュルシュルという流動物には触手が動いた。いくらもないが食べてくれた。家では缶詰もだめだ。鳥のひき肉のスープは少し飲んだ。ひき肉も少し食べた。こういった事はみな医者の指示による。甲斐を思い出す。腸が弱くよくささみを煮てあげていたのだった。食わないが元気になってきた。元気になると薬を上げるのが一苦労だ。まだ餌は食わないからそこに混ぜ込めないから、口に入れて飲ませるが吐き出す。私は指でつまみもう片方の手で口をこじ開けできるだけ喉の奥に押し込むのだが、元気になって抵抗が強く口を閉じようとするので危険だ。これが薬で病気のためなど知るわけもないし、知っていたなら犬などやっていないだろうに。甲斐の時も何度もしていたので手馴れていたはずだが、あれからもう10年以上たち、私も年を取ったので何か手元が不確かで、やっと薬を喉の奥に入れてあげた。一錠なら何でもないが四錠一個一個するのだから大変だ。これで健康が回復するならこの苦労は軽いものだ。
4日間はほとんど何も食べなかった。医者は、犬はそのくらい大丈夫だと心配していない。まずは寝る事。実際寝る、寝る。この日病院でくれた缶詰を食べた。良かった。それに鳥のひき肉も食べた。これもあっさりしているからだろうか。前からあるセレクトプロテイン(缶詰)はまだ食わない。大概これを食べるのだが、よほど体のコンデションが悪いのだろう。夜は少し食べた。良かった。これを中心に食べさせよう。だがバクバクやると下痢が心配だからぼちぼちにしようと思う。
五日目、突如食べ始めた。食欲が戻ったのだ。いつものドライフードも食べ始めた。
(テニススクールのレベルが上がった話は私の勘違いだった。ぬか喜びでした。レベルアップに向け頑張る)

頂点を極める(2019年9月7日)


頂点を極めたいと人は欲望する。でもこれは人を抜いて一番になりたいという心とは違う。

エベレストの頂点を極めたいと願うのは、何人も極めているが、自分もそうしたいと願うことだ。だからこれは競争とは違う。競って一番乗りとは違うのだ。まあ、一番で頂点に立つ競争はあるだろう。

頂点を極めるとは。なかなか難しい概念だ。スノーボードの頂点を極める。私がそう言った時は、めちゃくちゃうまくなることではない。自分の力量の精いっぱいのところに到達したいのをそう言いたいのだ。今私はボードの頂点を極めたと自分に言える。それは長年苦労していた左ターンがかなり確実にできるからだ。今までは最初右回りから入って左ターンなのだが、全体的に納得できないでいた。前年の冬、谷側に体の正面を向けて下に向かいずるずると滑ってから前を落として左ターンに入る。そこから出発をし始めたら、かなり気分よく滑れるのだ。その最初のやり方は浅間2000スキー場の中級コースだった。そこはとっつきがきつく狭いので上のその方法を取ったら、結構いけるのでその方法でどこでもやりたいと今思っている。ターンは左から入った方が次々のターンもきれいに決まっているのだ。今年はこれで急斜面をやる予定にしているが、今述べた状態が私の頂点だと思っている。これ以上は望まない。

ボードの筋トレのために始めたテニスについても頂点がある。テニスで極めたい頂点は中級だ。つまりまともなボールをへましないで打つ、レシーブをする。それでいいと思っている。なかなかこれが難しく、いつも何か練習で不満が残ってしまうのだ。もっと修行しなくてはと思っている。ただ歳なのでどこまで体力が持つかなということだ。その歳のせいで、頂点をめちゃ高い所にはおけないのだ。

テニススクールでは1つ上のクラスになれたようだから、がんばらなくてはと思う。大概のボール受け,打つことを心掛け自分の頂点を目指すのだ。練習しかない。二人のコーチと土浦コーチからみっちり仕込んでもらおうと思っている。言われたことを繰り返し練習するしかないだろう。

アクセルとブレーキ(2019年8月31日)


ブレーキとアクセルの踏み間違いで車が暴走して、悲しい事件が幾度も起きている。そんなに踏み間違えるのかと考えているが、アクセルとブレーキは隣同士だから、何かで頭がパニックになれば踏み間違いもあるだろうと推測していた。

当の本人がそのような少し怖い体験を軽くしてしまったので参考までに状況を話す。

とある交差点を右折するために右折車線で待っていた。大体その車線の信号は早く変わる。皆急ぎエンジンをふかして右折していく。私はやや遅れたので急いで曲がりつつあったが、もう信号が変わってしまった。後ろに中型のダンプがいて、そこは一車線の右折道路なのに加速して私の左側を追い抜こうとしていた。それがサイドミラーで見えていたので危ないと思い、ブレーキを踏んだのだがなぜか加速していた。あれ!加速だ、と気が付きアクセルを離した。やはり気が少し動転していたに違いない。後ろのダンプがいきなり追い抜いてきたので、怖いと思ったのだろう。何せちっこい車なのだから。

本人はとっさにブレーキを踏んだつもりがアクセルだったのだ。多分頭の中ではブレーキを踏む指令が出ていたのだが、なぜかアクセルを踏んでいたのだ。多分の脳の反応と体の反応がずれていたのだろう。気が動転すると多分体の反応に異常が生じるのだろうか。正常に対応してくれなかったのだ。脳はブレーキと言っているのに体の反応はアクセルをブレーキと認識してしまったのだろう。だから脳はブレーキを踏んでいるつもりでいるので、「ブレーキを踏んだのに、加速してしまった」というセリフになってしまうのではないだろうか。
暑い (2019年8月22日)


また書き始めます。
 今年は暑かった山谷のまりや食堂の弁当屋でもその影響があって大盛りが少なかった。いつも大盛りのおじさんが「普通」と言う。「普通だよ」と念を押す。それだけいつも大盛りの人でも普通になってしまうほど暑いのだ。
 カレーにも異変が。日替わり定食のカレーは抜群の人気だったが最近は波がある。余る時さえあるのだ。「辛くてなー」何んて言う人まで出てきた。暑すぎるのと歳をとってきた皆さんだから、辛いカレーはもう無理になったかもしれない。甘口にしようと思う。もちろん甘口と言ってもカレーだからやはり辛いのだ。私は胃腸が弱いからカレーは駄目だ。おいしいと思うが、後で胃が痛む。難しいものだ。
 窓を開けて開店だが、開けると待っているおじさんが「涼しいねー」。部屋から外に抜ける冷気を楽しんでいる。皆暑い所で待っているのだ。すみません。
 今日は8月22日だ。昨日の夜から少し涼しくなった。今日も朝は涼しかった。いよいよ夏はおしまいか。秋が来るか。
 今日は珍しく女性が買いに来た。聞くと観光客だ。千葉と埼玉。もう一人は地元の人だ。「ここ買っていいの?」「いいんだ」。山谷のおじさんがいつも並んでいるから山谷専用と思っている一般の人もいるようだ。
臨時認知テストについて(2019年5月17日)


2019年4月某日、87歳の運転の車が暴走し、若い親子をはね死亡させる痛ましい事故が生じた。なんとも悲惨でかわいそうな事故だ。多分ブレーキとアクセルを踏み違えたのだろう。若いのに今からの人生がすべて消えてしまったのだ。

認知テストをパスしても急に認知のレベルが下がるそうで、こうなるともう人間の側に頼るのではなくて、メカニズムに頼るしかない。つまり対向に物体があればアクセルを踏んでもブレーキがかかる装置が現在開発され、私の車にも装置されているが、このような危険防止の装置を高齢者ドライバーに義務づけるといった処置が必要だと思っていたら、そのようなことの可否を検討していると新聞にも書いてあった。

認知テストは必要なのはわかるが、上で述べたように、何度違反すればとか、また鮫洲ではなく最寄りの教習所とかをテストの会場にするとかしてもらいたい。歳をとってもそれぞれがそれなりに用事があるのだから、個人の自由を上から縛るようなことはしてほしくない。

ただ、事故は高齢者ばかりではない。上の高齢者の事故の後すぐにトラックやバスの事故があり何人かが死亡した。運転者は両方とも高齢者ではなかった。データーによれば「交通事故の発生率は80歳以上も20代前半もほぼ一緒」と書いてあった(平松類『認知症の取扱説明書』、SB新書、2019年、246頁)。

2019年5月某日


呼び出しが来ないから、多分一回の違反では来ないかもしれないと今思っている。言い換えれば今度すればアウトだと思うから、極めて日々の運転は慎重だ。信号に注意、車線変更標識に注意などすごく神経を使っている。これが警察の狙いかもしれない。とはいっても、高齢者でなくても日常的に細かい違反は行われているから、何か高齢者をバッシングしているとも思ってしまう。高齢者でなくても結構死亡事故を起こす事故は毎日のようにニュースで聞く。2019年5月某日には車が歩道に突っ込み園児二人が死亡した痛ましい事故が発生した。それを起こしたのは60歳ぐらいの人だ。

こうなると高齢者事故者の臨時認知テストの意味はもうすでにないのだ。誰でもが車社会ではひどい事故を起こす可能性があることを示している。今回の事故で思うのは信号待ちの交差点の歩道をしっかりガードすることが必要だ。今回のように交差点で事故の発生は高いと思うし、そこでは何人もの人が信号待ちをしているから危険だ。その歩道を防波堤のような頑丈な防御ブロックが必要ではないだろうか。電車のホームに取り付けているガードと同じ考えだ。担当当局にはぜひ検討をしてもらいたい。
臨時認知テス(2019年1月某日)


 高齢者臨時認知テストの手紙が舞い込んだ。
私は臨時にこのテストを受けなければ免許取り消しとなるというお上の通知だ。このお上は絶対権力者だから運転を継続するつもりなら絶対に逆らえない。
 テストを受けなくてはならない理由は、交通規則に違反したからだと紋切り型で、具体的には書いていない。私は前述のような事故を起こしたのが違反なのかもしれない。あるいはその後、車線変更禁止区域で黄色の線が逆光で見づらくて車線を変更したのだが、隠れていた婦警に御用となり、問答無用と罰金6000円ほど取られた。これが理由なのか。あるいは二つの総合でそうなのかなにも定かではない。いずれにしても受けなくてはならないのだ。
 若い人なら、罰金刑だけで済んだのだろうが、高齢者になるほど鞭打たれる感じでうんざりする。認知テストで締め上げて、免許書返納を勧めているのかもしれない。ただ、確かに高齢者ドライバーの事故が目立つから、道路に向かってしっかり注意を促すための作戦ではあろう。それを感じたのは、わざわざ鮫洲の運転免許取得試験場まで行かなくてはならないことだった。そしてテスト30分前までに来ないとテストが受けられない場合もあるといやらしい。私の使う電車路線はたまに遅れるから相当早く家を出た。まったく一日がかりのテストになった。こうなると慎重運転で絶対に違反してはならないと心に呟く。だが、人間は聖書も指摘するように完璧でないから、うっかり事故はつきものだが、私は完全を目指さなくてはならないのだ。
 認知テストの最大の難関は16の絵を記憶しなくてはならないことだ。一枚の紙にトマトとかペンギンとか4つの絵が描かれていて、それが四枚ある。だから16コマの絵を覚えこまなくてはならないのだ。しかもいやらしいことに絵を見た後に違う作業をしてから、その16コマの絵を文字でトマトとかやかんとか表記していくのだ。
 認知テストはいくつもの作業があり、最低で45点以上取っていればパスのだが、私の場合はもう一つの難関があるのだ。それは以前教習所の高齢者講習会認知テストで90点を取っていたのだが、今回のこのテストでそれより悪いと私は教習所で2時間の講習を受けなくてはならない旨、赤字で呼び出しの書類に記されていた。これがプレッシャーなのだ。それは講習会がいやだというのではなくて、教習所が遠いので、それを受講するのに半日も時間を費やしてしまうからだ。教習所で75点だった人はそれ以下でなければよいのだが、私はこの鮫洲のテストでは90点取れるかどうか自信がないのだ。なぜならここは試験場だ。要するに警察場だから神経をピリピリさせていてどこまで暗記できるかが心配なのだ。これは皮肉な現象だと思う。教習所で一生懸命認知テストを受けて良い点を取ったのに、それがあだ花になる可能性もあるからだ。
 30人ぐらいの高齢者ドライバーが教室に入りテストだ。みな緊張している。いくつかのテストの後でいよいよ16個の絵を覚えこむ作業だ。最初の絵は戦車、太鼓、目、ステレオだった。どういうわけか16の絵がスート頭にしみ込んだ。テストがすべて終わり、20分後に結果の発表だ。私のは98点だった。ほぼパーフェクトでホッとした。あとから思い出したが「やかん」の絵が脳に浮かんでこなかったのだ。
 こういった具合だから、この臨時の認知テストは高齢者に対するきつい締め付けだ、高齢者いじめだと感じている。でも高齢者の事故が多いから仕方がない。高齢者の運転には最大の神経を使わなくてはなるまい。
命のありがたさ(2018年12月31日)


 雪の高速道路でトラックがスピードを出しすぎスリップして路肩の車に衝突、2名死亡(12月30日)。タクシーが路地から道路を横切ろうとしたところに右から来た車が衝突、3名死亡(12月某日)。
 私はこの頃やたら車の事故による死亡記事に目がいく。これは本当に痛ましい死だ。人生が一瞬にてそこで断ち切られるからだ。実は、私にもそうなる可能性の事故が発生したので、他人事とは思えず身につまされているのだ。仕事や人とかかわっている時は気が紛れて良いのだが、一人になると何か鬱っぽくなり事故によるみじめさが心を暗くしてしまう。でもそんな気持ちに負けまいと、自分を打ちたたき、この出来事を綴っている。
 12月某日、クレーン車が右横後ろ座席に突っ込み、そのアームが窓と後ろドアを壊し、運転している私の後ろ30センチのところで止まっていた。車はゆがみおしゃかとなり、廃車だ。私の車は身を犠牲にして私を守ってくれたのだ。犬の勇太も守られた。後ろの座席は割れたガラスの破片が散在したが、けがひとつなかったのは幸いだ。もう一つは勇太はいつも後座の進行方向左側に臥せているから、車の進行方向右側面に左から突っ込んだアームが当たることはなかった。本当に良かった。運転手がもう一瞬気が付くのが遅ければ、車は串刺しになり私の頭は潰されていたのだ。本当に恐ろしや、今振り返ると心臓が縮みあがる感じがしている。
 事故の発生は私の過失と言われても仕方がない。6分が私、相手は4分と思う。いつもの路地から通りに出るのだが、その通りの先にある信号が青に変わったときに私はウインカーを出し、割り込むべく、そこにいたクレーン車に目線を送って挨拶して割り込んだのだ-いつもそうしている。少し入ったところで突如後ろでめきめきと異様な音がしてクレーンが突っ込んできたのだ-。多分私の合図に気が付かなかったのだろう。この手の運転席は高部にあるからこちらを見えるはずだが、左側にアームがあるので見づらく、私は慎重にその車が動かずに止まっているのを確認してから割り込むべきだったのだろうが、実際は私の方は少し動いて、入る意思を伝えないといつまでたっても割り込めないという事情もあるのだ。
 相手が悪かった。鉄の塊のような重機だ。少し接触しても普通車は深手を負う。また普通車に比べ、左方の視界は悪いだろう。そのような車だから、もっと慎重に、割り込まなければならなかったのだが、後の祭りなのだ。
 あのアームがあと30センチ突っ込んでいたら私の頭は潰されていたはずだ。それで冒頭で述べた車による死亡事故の報道に目線が走るのだ。私は死を免れたのだから、あの位置で止まってくれた運転手に感謝すべきかもしれない。いずれにしても車は怖い。大事故は一瞬にして死に直結するからだ。私はまだ社会的責任もあるので今一瞬にして死ぬわけにはいかないのだ。
 人生は本当に先が見えないものだと感じている。死ぬときに死ぬのは仕方ないのかなとも思うが、わたしにはもっと生きてやるべき仕事をせよとの神の思いが危うい事故から死をすり抜けて生者の方へと行かせてくれたのだという思いが強くある。あと何年生きるかわからないが一日を強く行きたいと願っている。
 ただ、行動には車がいるから新たに適当な物件を物色しなくてはならない。