はとの死(2018年6月8日)

 朝の散歩のとき、公園の脇ではとが猫に襲われていた。丁度私たちがそこを通ったので猫は逃げて行ったが、はとは羽をばたつかせ50センチほどの生け垣に上がっただけであった。見たところ怪我はしていないようだが、多分病気などで弱って飛べないところを猫に襲われたのだろう。
 屋根の上にはカラスがこちらの様子を見ている。多分このカラスもこのはとを狙っているのだろう。自然界の淘汰の激しさを感じる瞬間だった。多分、私たちが行ってしまえば、カラスの餌食になってしまうのだろう。
 私は、鳥の飛ぶ姿を見ていつもすごいと思っている。うちに来る雀でも、庭にまいたお米を食べに来るが、隣の屋根からすっと降りてくる。人間はそうはいかない。屋根に上ることもできないし、上るのはとても危険だ。そこからすっと塀越しの庭に着地するのは人間には無理だ。羽があるって素晴らしいなといつも感心している。
 だが、一方では鳥の生活の厳しさを想像する。例えば、渡り鳥だが、よく見かける燕にしても、皆元気そうに飛び回り、子供のために虫などの狩りをしている。そうした元気な燕を見るが、元気でない燕はいないのだろうかと思う。多分渡りの途中で、日本まで飛行できない燕は海に落ちしまうのだ。ここにも自然の淘汰の厳しさを思う。
 羽があることをうらやましいと思うが、羽のあるゆえに、さまざま理由で飛べなくなれば、羽で生活を営んでいる生き物は、生きることを中断せねばならないのだろうと思う。ここにこの種の生きる厳しさを感じる。いつぞやは玄関に雀の死骸があった。ある時はムクドリの子供が二匹も死んでいた。自然の残酷を感じている。
 他方では、雨降り朝、こないだ手に入れたバラの葉はみずみずしく生を輝かせていた。鉢植えなので、地面に下したいと思っている。植物は人間と作られ方が違うから、枯れてもあまり悲しいとは思わないが、生き物は構造が近いから、何か他人事とは思われない感情がその生き死に湧いてくるのだ。
 自然界では自然淘汰として弱いものが強いものに食べられ無になっていく。人間界でも同じことが展開されていると思う。人間界にもし烈な競争があり、昨今では経済淘汰に厳しいものがあるのではないだろうか。企業がさまざまな理由から、競争に負けて淘汰され、合併とか、買収とかがある。最近ではシャープの台湾企業による買収が目についた。要するにこれは、弱い企業が強い企業に食われてしまったのだ。これは一つの例でしかなく、人間の世界は、あの弱ったはとの先が絶望であるよりも、もっと厳しい社会であることを示している。
 それは人間にも言える。競争社会では人々の競争は激しいものがあるだろう。
要するに人間どうしで食い合っているのだ。強い者は弱い者を食べてしまう。言い換えれば強い者が沢山の収入を得て、弱い者は生きるすれすれのところで生活せざるを得なくなっているのではないか。これが現代の強欲資本主義というものだ。



あずき
きなこ