尾崎放哉 (2023年8月30日)

『放哉と山頭火』(渡辺利夫、ちくま文庫)、『放哉評伝』(村上護、放哉文庫、春陽堂)を参照した。

この人は自由律俳句の俳人で「層雲」の山頭火と双璧だった。

尾崎放哉は東京帝国大学法学部を卒業したエリートで生命保険会社に入ったが、アルコール依存症になる。また酒乱になるという困った性癖で、退社する。友人の紹介で朝鮮の保険会社に入るも、酒癖の悪さゆえに退社せざるを得なかった。友人をたより満州にわたるが、学生の頃になった肋膜炎が再発し、日本に帰る。

日本に帰り一燈園に入る。この団体は西田天香によって京都に作られた求道的会だ。放哉はそこで天香の唱える懺悔と下座の生活に活路を見出そうとした。ここでも酒乱で騒動を起こす。また天香に批判的で、下座奉公に行った先の常称院の寺男になるが、また酒乱で追い出される。

酒乱は哀れだ。酒を断つしか生きる道はないのだが、酒は断ちがたい。こうして放哉は酒乱と肋膜炎を抱えながら崖っぷちの道を歩むのだった。

山谷でも酒乱は大変だった。飲んで暴れて手に負えない。マンモス交番を呼ぶしかなかった。アルコール依存症は山谷には多かった。今は山谷は静かになったが朝から飲んでいる人は幾人もいる。もう酔っぱらっているのだ。道路の縁石に腰かけて飲んでいる。どんな生活をしているのだろうか。酒代はどうしているのだろうかと思う。スポーツ新聞などに土工などの出張の広告などがあるから、そういうもので10日なりを飯場で働いて金を得て山谷に帰ってくるのかもしれない。今でも山谷は気楽だ。ドヤはいくらでもあるし、朝から飲み屋はしているし、男が朝からぶらぶらしているし、ここでうろうろしても、酔っぱらってもいぶかる人はいないので気楽なのだ。寒くなければ野宿も適当にできるのだ。

山頭火も酒に問題があるが、放哉の酒は病的だからかわいそうだ。ジキルとハイドのようで飲めば人格が一転する。きちがい水というが本当にそうなのが放哉だ。キリがなく飲み、毒ずき、けんかを始めるのだ。そうゆう人の事を前に聞いたことがある。その人は飲むと相手を殴る癖があるという。立ち飲みで隣を殴りけんかになってしまうのだ。私も酒は飲む。気をつけよう。

放哉は学生時代から俳句に親しんでいた。自由律俳句の井泉水(せいせんすい)の句誌「層雲」に投句していた。

層雲の投句には光るものがあった。(85)


たった一人になり切って夕空

なぎさふりかえる我が足跡も無く

淋しいぞ一人5本のゆびを開いて見る(87)

ひげがのびた顔を火鉢の上にのつける

つめたい風の耳二つかたくついている

わが顔ぶらさげてあやまりにゆく


井泉水も東京帝国大学卒で学生時代から俳句をしていた。俳句会を作り、放哉は俳句の子弟の関係で親しくしていた。放哉は井泉からお金を借りたりしていた。

寺男として働くもこき使われて井泉のところに逃げ込んでしまう。井泉水は自由律俳句の異才を死なすわけにはいかない何とか生活を作ってやらねばと考えていたのだ。

小豆島には層雲俳人、住職の宥玄に頼み、どこそこの寺男となる段取りをする。遍路さんの喜捨が生活費となる庵があった。放哉はここが気に入った。海があるからだ。(128)独居生活、ここを死に場所としたのだ。結核菌で喉もやられ食えない、咳で一晩眠れない。入院はせずにここで死ぬと決める。もうこれ以上他人に迷惑はかけたくないと考えたのだろう。寝たっきりだ。近所の漁師のおかみさんのおしげさんが世話をしていた。多分宥玄に頼まれたのだろう。宥玄は尊敬する井泉水に頼まれたのだろう。井泉水は救いようのない放哉の骨は拾う覚悟で世話をした心の広い人だったのだ。山頭火も層雲の俳人の支えで生活を何とか維持して生涯を全うする。二人は似ている。自立して生計ができないのだ。破れているのだ。でも自由律俳句は両者とも他に抜きんでていたのだ。芸は身を助けるのだろう。

(167)もう一人では寝起きもできない。放哉は死が近づいていること感じていた.この庵で一人静かに死ねるのは良いことだと心から思っていたのだ。自由律俳句の異才として井泉水は支え続けたのだったが、本人はもう生きる勇気はなかったようだ。飲めば気違いになるし、好きな酒ももう飲めないし、体は結核でむしばまれているし、もう生きなくても良いだろうと思ったのだろう。早すぎる死だ。自己放棄の死だったのかもしれない。山頭火は酒浸りの生活の中で念願通りポッコリ死んだ。放哉の酒乱という気の毒な気質がこういった人生を旅させてしまったのだと思う。