命のありがたさ(2018年12月31日)


 雪の高速道路でトラックがスピードを出しすぎスリップして路肩の車に衝突、2名死亡(12月30日)。タクシーが路地から道路を横切ろうとしたところに右から来た車が衝突、3名死亡(12月某日)。
 私はこの頃やたら車の事故による死亡記事に目がいく。これは本当に痛ましい死だ。人生が一瞬にてそこで断ち切られるからだ。実は、私にもそうなる可能性の事故が発生したので、他人事とは思えず身につまされているのだ。仕事や人とかかわっている時は気が紛れて良いのだが、一人になると何か鬱っぽくなり事故によるみじめさが心を暗くしてしまう。でもそんな気持ちに負けまいと、自分を打ちたたき、この出来事を綴っている。
 12月某日、クレーン車が右横後ろ座席に突っ込み、そのアームが窓と後ろドアを壊し、運転している私の後ろ30センチのところで止まっていた。車はゆがみおしゃかとなり、廃車だ。私の車は身を犠牲にして私を守ってくれたのだ。犬の勇太も守られた。後ろの座席は割れたガラスの破片が散在したが、けがひとつなかったのは幸いだ。もう一つは勇太はいつも後座の進行方向左側に臥せているから、車の進行方向右側面に左から突っ込んだアームが当たることはなかった。本当に良かった。運転手がもう一瞬気が付くのが遅ければ、車は串刺しになり私の頭は潰されていたのだ。本当に恐ろしや、今振り返ると心臓が縮みあがる感じがしている。
 事故の発生は私の過失と言われても仕方がない。6分が私、相手は4分と思う。いつもの路地から通りに出るのだが、その通りの先にある信号が青に変わったときに私はウインカーを出し、割り込むべく、そこにいたクレーン車に目線を送って挨拶して割り込んだのだ-いつもそうしている。少し入ったところで突如後ろでめきめきと異様な音がしてクレーンが突っ込んできたのだ-。多分私の合図に気が付かなかったのだろう。この手の運転席は高部にあるからこちらを見えるはずだが、左側にアームがあるので見づらく、私は慎重にその車が動かずに止まっているのを確認してから割り込むべきだったのだろうが、実際は私の方は少し動いて、入る意思を伝えないといつまでたっても割り込めないという事情もあるのだ。
 相手が悪かった。鉄の塊のような重機だ。少し接触しても普通車は深手を負う。また普通車に比べ、左方の視界は悪いだろう。そのような車だから、もっと慎重に、割り込まなければならなかったのだが、後の祭りなのだ。
 あのアームがあと30センチ突っ込んでいたら私の頭は潰されていたはずだ。それで冒頭で述べた車による死亡事故の報道に目線が走るのだ。私は死を免れたのだから、あの位置で止まってくれた運転手に感謝すべきかもしれない。いずれにしても車は怖い。大事故は一瞬にして死に直結するからだ。私はまだ社会的責任もあるので今一瞬にして死ぬわけにはいかないのだ。
 人生は本当に先が見えないものだと感じている。死ぬときに死ぬのは仕方ないのかなとも思うが、わたしにはもっと生きてやるべき仕事をせよとの神の思いが危うい事故から死をすり抜けて生者の方へと行かせてくれたのだという思いが強くある。あと何年生きるかわからないが一日を強く行きたいと願っている。
 ただ、行動には車がいるから新たに適当な物件を物色しなくてはならない。