A先生の思い出 (2020年11月25日)

 お亡くなりになって、奥さんから先生の衣類があるとのことで頂くことにした。

 普段から献品で頂いた衣類はバザーをしたり玄関前に置いて山谷のおじさんに提供している。衣類配布は手渡しが良いのだが、人手の都合でできないでいる。

 衣類は買えばそれなりに高い。バザーでは平均300円ぐらい、玄関前に置けば野宿の人や近隣のドヤの人たちが使ってくれる。さほど良いものではないが十分着られるから衣類代が助かる。この方法は大いなるリサイクルだ。一般家庭の使わなくなった衣料が無駄なく使えるからだ。おじさんたちは使い切ったらゴミにして、その衣類は十分役目を果たし一生を終える。

 A先生の衣類には特別の感慨がある。それは山谷兄弟の家伝道所やまりや食堂を立ち上げる際には、ひと方なる世話になったからだ。私は一匹オオカミみたいに生きてきたので、単独で山谷に入り日雇いをしながら伝道を開始した。

 そうした中で、炊き出しの必要性やその後安い食堂設立などを考えていた。立ち上げるのは一人では無理だったが、たまたま知り合った人の紹介でA先生との出会いがあり、展望が開けた。温厚な方でキリスト教会の各方面につてがあり、幅広く支援の輪を広げることができている。そのような活動を通して、借地とはいえ3階建ての教会兼食堂(現在は弁当屋)を作ることができた。ひとえに先生のお支えがあったからだといつも心にとめている。

 その方の衣類だから、形見となる品をいくつか頂いた。こうして世話になった先生の思いが具体的に手元に残り先生の好意をいつも胸に持つことができて感謝だ。沢山頂いた衣類は山谷のおじさんへのバザーと無料配布で使うことができた。生活の厳しい人への思いから私の屋台骨を支援してくださり、こうしてお亡くなりになっても、身に着けていたものを山谷のおじさんに配れたから、きっと先生もお喜びのことだと思う。

 A先生との出会いは40年もの前で、退職、引退などによってつながりは切れていたが、支援者という関わりで、こうした衣類を頂きなにか先生とのいのちのつながりみたいなものを感じている。衣類は物なのだが、それを行為する主体の思いは、そういったところへの思いがあるからで、その思いは一つのいのちなのだろうと思う。そしてそのいのちに、私も帽子の遺品を通して預からせていただいているように思える。それはA先生の未来であったのだ。遺品について話すとき、遺品に触れる時それだけで亡くなった人の未来に関わっているのだ。


 鳩に餌をやる人 (2020年11月17日)

 まりや食堂の前はいつも鳩の糞で汚れている。運悪く電線が幾本もあり止まり木にして糞を落としているのだ。毎朝おじさんがお水とたわしで洗ってくれる。

 餌をやる人は知っている。いつものり弁の大を買っていく「のり弁おじいさん」だ。ほぼ酔っている。鬚もじゃの人で、近所のドヤ住まいだ。山谷では、一人住まいのわびしさから動物をかわいがる人が多いが、この人は隣の駐車場にしゃがみいつも鳩にパンくずを上げている。

 こんな人のおかげで、はとが繁殖し糞だらけとなるのだ。この人に糞のことで注意するのもしづらい。これが楽しみなのだろうと思うからだ。鳩は人懐っこいから親しみを込めて寄ってくる。かわいいかわいいと餌をやるから足元に群がるのだ。楽しいひと時なのだ。これをぶち壊すのもかわいそうだ。この人はこれで心がなごむのだ。

 たわしで掃除してくれるおじさんは「黒卵焼きのおじさん」でまりや食堂では通っている。次の日食べるのでしっかり焼いてもらいたいのだ。このセリフから推し量って路上生活者なのだろう。ある日交渉して、路上に水を撒いてもらえたら毎晩卵焼き弁当を提供したいのだがとおずおずと頼んだら快諾してくれた。

 まりや食堂の周辺はその糞やツバ、タンなどで汚れている。特に糞はひどい。それに隣の駐車場とまりや食堂はヘンスで仕切っているが、このヘンスの場所が道路から少し奥まっていて車が何台も駐車していれば、立小便には恰好の場所なのだ。おじさん達はひっきりなしにそこで用を足すので、臭い。小便がしみ込んで不快な臭いまでする。そこまで水を撒いてもらうために長いホースを提供したのだが最近は怠けているみたいだ。内の人間に頼んで水を撒くしかないだろうと思っている。

 駐車場管理者に強く言えばよいのだが、ここらは皆借地。駐車場は地主の所有なのでなかなか言えないでいる。法が変わり、だいぶ前から地主の権利が強くなったので借りている方は強いことが言いづらいのだ。