山頭火と山谷と私 (2023年6月14日)


「ほろほろ、ふらふら、ぐでぐで、ごろごろ、ぼろぼろ、どろどろ」(p.11)

うまい表現だ。山頭火の飲み方なのだ。フラフラまでが良い。私もその全部の時もあったと思う。今はフラフラまでだ。体や次の日の事を考えて止めるようにしている。ちょっと飲みすぎると次の日がテニスの練習なら切れが悪い。だからそれがある前日は控えめに、不整脈もあるから控えめに。こんな事象によって自分にプレッシャーをかけて控えめに飲むように努力している。うまくいかないこともある。仲間は上の表現の様々なタイプがいる。基本はみな強かった。Nは強くないがどろどろになるまで飲むアルコール依存症だった。酒はなかなか厄介な品物だ。

石寒太は(p.82、84、85)山頭火の人気がある理由を言っている。

家を捨て、妻子を捨て、旅、酒、自由律俳句、漂白、流転の境涯が今の人に魅力なのはなぜか。何物にも拘束されない生き方は魅力だ。日常に縛られた人々には魅力だ。作品もわかりやすい。徒食して好き勝手して、さびしがりや、あいきょうがある。金銭の面倒をみてもいい人だったと評価。家庭ダメ、仕事ダメ、酒大好き、そこに親しみを覚える。

でたらめな人生を送りながら、俳友や友にたかり、金を借り、借金を肩代わりさせるのは何でできたのか。(p.85)私もそう思う。その最大の理由は自由律俳句にあったと思う。自由律俳句の世界でとびぬけた作品を作り続けたから、その作品の魅力のゆえに彼はその存在が許されたのだろう。何をしでかしても友人から許されたのだろう。

大きく言えば、そういった俳句の授業料を俳友は支払っていたのだと考えられる。

あとは時代だろうか。明治、大正、昭和初期の日本人には大いなる人情がまだあったのではないだろうか。

家を捨て、自由な生き方をしている人々を私は知っている。それは山谷の私の仲間だった。自由に生き、酒、ギャンブルで人生を歩む人々だ。山頭火は行乞が嫌いだったが、漂白時はこれで食いつなぎ、酒にありつき、宿にありついだ。金があればいくらでも飲みつぶれていたのだ。行乞で銭やお米が集まらない時は俳友に援助を頼んだのだ。あるいは野宿だ。

山谷の仲間たちは生活のために肉体労働して、稼いだ金を酒やギャンブルに注いだのだ。彼らは自分で稼いでそれで遊んだのだ。その故に、私は自由な奔放な山頭火に魅力を感じているわけではない。

私が興味があるのは、めちゃくちゃな飲みっぷりだ。飲んででたらめになるすごさだ。

これは仲間の人にはない。それほどの度胸のある人もないだろう。

仲間が無銭飲食した時はしたたかに殴られて放り出されたという。違う人の話では警察に突き出しても時間が食って仕事にならないと言う、だからぶんなぐっておしまいなのだろう。仲間は身の程で飲み食いしておしまいだ。それでもアル依存症の人は安い酒を飲み続ける。山頭火は時には料亭で飲み食いし、つけ馬を友人宅に連れていき、支払いをお願いしたとある。ずうずうしいというか、鉄面皮なのか不思議な感覚だ。なぜならアル依存症ならそれでよいのだが、なんで一流どころで目一杯飲むのだろう。安いところでくだくだ飲んで支払いを友人宅にもっていけば傷は浅いではないか。友人も迷惑だ。

句会で飲む、足らなくて飲みに行く。最後はぐでぐでだ。私も結構酒を飲むから山頭火が好きだ。やめようと思っても飲んでしまう。肝臓、不整脈を意識して酒にブレーキをかけてはいるが。

山頭火は結局は無事な人生を送ることができた。山頭火は句をたくさん残した。やっぱり句の力のなせる業だったのだろう。庵を立ててもらいそこで月一回句会を行い、ある日の句会で山頭火は酔っぱらって隣部屋で熟睡そのままだい往生だ。畳の上でぽっくり死んだのだ。愛された人だったのだろう。どうにもならない男が句の力で支えられ、逝ったのだ。今もその俳句は魅力をもって世間に舞っている。でも墓は共同墓地だった。

わけいってわけいっても青い山

うしろすがたのしぐれて行く

山頭火のように酒にだらしない男がいた。20年近く支えてきて平和に死んで行った。少しそれについて語る。若干の知的障害とアル症だ。毎日飲み続け、昼も飲んだ。夕方まで飲まずに、また飲んだ。体がズタズタになり入院、退院すればまた酒だ。野宿しながら酒だ。誰かがおごるのだ。これが山谷の良いところだ。

入院し生活保護が取れ、あとは監視しながら酒が少しで止まるようにした。だが酒は止まらず、腹水がたまり入院とか、静脈瘤で入院。それを縛って、干し柿のようにしてとるのだ。腹水からヘルニアになるとか、様々な病気で入院だ。日本の制度は医療保護があるから酒の問題児でも入院等で治療が受けられるからよいことだが、私は時には、「多くの人の保険金で支えられているのだから酒は控えめに」、と言っても依存症だから無理だった。

ある時からシアノマイドを飲ませて酒の量は減った。これは酒が嫌になる薬だが、飲む。これを飲むとあまり飲めないとほざく。あまり飲めないでよかった。でも酒だ。

ある時は電話で病院によばれた。路上でひっくり返っていたのだ。酒、酒それがこの人の特徴だ。山頭火と同じだ。酒がすべてで、酒で粗相し、ドヤを追い出される。私は保証人になって違うドヤに。

山頭火は居場所を作っても長くおられずに旅に出てしまう。旅に出ても行乞ができれば何とか食って飲んで泊まれるのだろう。あてどもない旅の人生が好きだったのだ。芭蕉同様旅が住みかだったのだ。旅は俳句の旅でもあったのだろう。彼は生活保護をもらえたから生活は安定していた。

山谷の仲間は日雇いだった。出ずらを飲むのだが全部飲まずに明日の分は残した。またそうしないと次の日仕事にならないのだ。その点では山頭火より仲間の方がシッカリしていたと思う。

山谷のアル症者はドヤにも泊まれないから野宿だ。仲間同士で次の日酒たって仕事に行けば何日かは酒を飲み続けられる。そんな日々だったと思う。最後は病院に収容だ。その繰り返しで路上で亡くなっていくのだろう。

Nは最後は施設に入りそこで一生を終えた。当時は徘徊や妄想があってもう私たちの支えの限界が来てバトンタッチしたのだった。それは山谷にあるまりや食堂を活動の拠点にしているが、夜はそれぞれの住まいに帰るから、夜遅くまでは日常的にかかわれないので知っている施設に頼んだのだ。沢山のかかわりで支えたがゆえに畳の上で死ぬことができた。これは愛だ。隣人愛で支えたので最後まで生きることができた。

山頭火は家族を捨てたのに、せがれは大人になって父を金銭的に助けた。

私も家族を大切にしないところがあった。伝道のために日雇いになり山谷のドヤやアパートを借り週末しか家に帰らなかった。そんな生活だから子供の事は妻にまかせっぱなしだった。妻も生活のために仕事をしていたからそれぞれ苦労してきた。

日雇いし仲間を作り、飲み会などをした。よく飲んだ。よく仕事もした。伝道所を作り、食堂を作った。

当時山谷には合法的な暴力的組織と私的な暴力組織があったと感じている。あるグループとのいさかいで激しく攻撃されたこともあった。それが長く尾を引いて何年も緊張を強いられた。当時山谷は現役も多く食堂で酔っぱらって暴れることもあった。良かれと思い安い食堂を作ったのにこれは想定外だった。

元来が弱虫だったが、日雇いで体はある程度できていたし、土堀など気合がいるからある程度は体力と根性はできていた。その点で山谷伝道には日雇いの洗礼は必要だったと振り返り思う。炎天下の路上の仕事は殺されそうだったが必要事項だったのだ。そういった武装をしていたから大概の日雇いの酔っ払いでも対応はできたし、食堂の時も日常的に日雇い仕事の会話ができたので食堂の仕事はそれなりに流れた。

尾を引いたといったのは、そのグループの周辺にいた中に思い込みの強い人がいて私はその人の妹を殺したとかどうのこうので最後には包丁を持ってきたのでボランテアと私のために弁当屋に切り替え今日に至っている。弁当屋であれば部屋内にその人が入ることはないのでさほど危険はないのだ。うろうろしているので、防刃チョッキを買い用心をし、極真空手の修行をした。そのころは50過ぎのおじさんだった。周辺部に3人組というのがまたうるさかった。思想をかじっていて論理を振りかざしていた。一人は理屈がたち私を評価していたが、もう一人は若く飲むと強烈に乱れて怖かった。一度取っ組み合いになったこともある。皆過ぎ去ったことだけど思いだせば心がうずく。

今でも割り切れないでいることがある。当時はマンモス(交番)も先鋭であった。山谷の組合が日雇い労働者のためにハンバや建築会社に押しかけ労災の要求や賃金未払の支払いなどを要求していた。日雇い労働者は一人の弱さや知識の足らなさから踏み倒されることも多く組合が頑張っていたのだ。当然マンモスと組合は先鋭的対立関係にあった。私なども日雇い労働者のために食堂を作っていたから交番には否定的で組合を応援していたのだ。それがその組合の一部の人たちが私たちを攻撃してきたのだ。それはないだろうという気持ちがあった。攻撃されても交番に垂れ込むわけにもいかないし。本当に困ってしまったのだ。やむをえないから政治的に解決をしたのだが、それ以来心情的には組合を支援をしているが、その関係性は大人の関係であり続けている。

今の山谷はおとなしいといってもやはり山谷だ。山谷の中にあるマンモス(交番)は山谷の中を常に車で巡回だ。怪しいとなれば何人もの警官が囲み職務質問だ。

当時山谷の仲間は毎晩の酒、ドヤの一人生活、週末のギャンブル、明ければまた激しい日雇い生活。それを癒す、山谷に帰ってからの酒、これが人生なのだ。酒があれば人生は楽しいのだ。山頭火と同じ境涯なのだ。ただ彼は山谷では通用しない。肉体労働は無理だし、怠け者だから。でも公園などで酒盛りしている野宿者の中に入り込めば仲間としていくらでも酒を飲ましてくれるだろう。

山頭火の現実の生活は壊れているが、生活を支えるのは行乞なのだ。これがこの人にふさわしい。なぜなら家庭生活のように一か所にとどまらなくてよいからだ。放浪し、酒をたらふく飲んで、木賃宿に泊まり、そのつれずれが俳句を生み出す力であり俳句を生み出していたのだろう。酒と旅が俳句を生み出すのだ。こんな生き方もあるのだ。

自由律俳句で山頭火は若い時から優秀であった。雑誌の選者に選ばれる。俳諧の力は抜群なのだ。

(p.80)うつを紛らわせるために酒、飲めばとことん泥酔し醒めれば自虐。

山頭火の母は自殺、家は破産、弟も自殺、うつ病、大酒のみ、結婚、健が生まれる、法的には離婚。そういった環境に山頭火はいたのだった。