転生 (2020年4月15日)
何とも奇想天外な本だ。犬が転生をする。しかもいく度もするのだ。だが奇想天外と言っていながら、気が付いたのは日本の仏教には輪廻転生という考えがあるのだ。ただそれは人間が中心だと思う。
この本は犬が幾度も犬に転生を繰り返すストーリーなのだ。犬に関係しているので、何気なくこの本を買った。犬が何度も転生していったいどうなるかと思っていたが、ラストで驚いた。それは、転生した犬が最初の飼い主に出会うからだ。その飼い主は杖をつく老人になっていた。犬の方は転生を繰り返しているからまだ成犬なのだ。
老人は寂しいと犬に嘆く。結婚したかったのだが、うまくいかずに老人になってしまったのだ。金はある、農場もある。でも寂しいのだ。犬は彼を救うことが自分の役目と気づくのだった。そのために転生していることを理解したのだ。さほど遠くでない所に住んでいた最初の恋人のアンナとの関係を取り持つ。二人は再開し一緒に住んで幸せになるのだった。ある日皆が出払い、老人は具合が悪くなり、その犬が自分が飼っていた犬の転生であることに気が付き、「おまえと別れるのは辛い」と嘆きながら、その犬に看取られながら亡くなるのだ。その犬は転生を繰り返して自分をかわいがってくれた主人を探しあて、その老人を慰めその老人は静かに死んで行くのだ。
私の場合は立場が逆で、私は重病の犬を抱えて、死んだら寂しいなと心からしみじみと思っているこの頃なのだ。老人の場合は自分が亡くなることによって、別れてしまうことが辛いのだ。私の場合は犬が死ぬことによって、辛く寂しいのだ。両方とも犬と別れることが辛いことなのだ。立場が違っても別れる辛さは一緒なので共感したのだ。
この物語がありえない話にしても多くの人の共感を得るのは、生物学的に大概先に犬が死んでしまい、寂しい思いを経験しているからだろう。私にしても勇太が転生してまた私に出会うなら無償の喜びだろう。
転生を思うのではなく、また飼えばいいのだが、私はもう年なので自分が死んだら犬はどうなるかと思うともう飼えないのだ。またそれが寂しさを増す原因にもなっている。私がもっと若ければ勇太の様な甲斐犬をまた飼って慰めとすればよいのだが、もう不可能なのだ。犬無しでは生きていけそうもないので、犬とのかかわりの方法を色々考えている。
私が買い取り、誰かに飼ってもらい、時折会いに行くとか、リースの犬を寂しい時に借りて、たまに家に連れ帰るとか、あるいは犬の世話をしている介護施設にボランティアで行くとか、いろいろと頭の中が回っている。
まあペットロス症候群なのだろう。ただ、今結構犬の介護が大変だが、かみさんと分担しているのでやれているなというところはある。だからパートナーの介護や、親の介護がいかに大変かがわかる。多分トイレが一番大変と思う。いっぽ(犬のあだ名)は3時間ごとにトイレだ。23時頃トイレで次が4時だ。一人だと寝不足になってしまう。これが人間の場合だと大変だと思う。認知症や体が不自由などでおむつをしている場合、大便をされるとその処理も大変だろう。今ワンちゃんはまだ外に連れて行ってやれているが、非常に脚が弱ったのでこの先おむつに用足しということになるだろう。中型犬だからうんちもそう大きくないので人間の場合に比べれば楽だろうが、末期に近づくと結構世話が大変だ。そういった世話をすれば、世話の大変さからもうワンちゃんは飼わなくても良いという気持ちになれたらありがたいのだが。
介護施設で犬を飼ってもよい所もある。旦那が死んで奥さんが犬と別れたくなく、入所してとても幸せそうなのだ。少し認知の人にも犬はとてもなつき、その人の深い慰めとなっているようだ。犬は人間に深く慰めを与えてくれるペットだから心が癒される。
小さい犬など、飼い主がべったり抱いている様子を時折見かける。こうなると人間対ペットというよりも、自分の子供か恋人だ。母親でも息子にべたっとしている親がいる。なにか親子というよりも恋人といった感じだ。もう精神的には恋人なのではないか。そういった感じの人間と犬の関係を案外見かける。
私の場合は家来か従僕といった感じだ。まあ忠実な家来ということか。いっぽはいつも私が家に帰る30分前から玄関で待っている。重症の今でもそれは変わらない。
この本は犬が幾度も犬に転生を繰り返すストーリーなのだ。犬に関係しているので、何気なくこの本を買った。犬が何度も転生していったいどうなるかと思っていたが、ラストで驚いた。それは、転生した犬が最初の飼い主に出会うからだ。その飼い主は杖をつく老人になっていた。犬の方は転生を繰り返しているからまだ成犬なのだ。
老人は寂しいと犬に嘆く。結婚したかったのだが、うまくいかずに老人になってしまったのだ。金はある、農場もある。でも寂しいのだ。犬は彼を救うことが自分の役目と気づくのだった。そのために転生していることを理解したのだ。さほど遠くでない所に住んでいた最初の恋人のアンナとの関係を取り持つ。二人は再開し一緒に住んで幸せになるのだった。ある日皆が出払い、老人は具合が悪くなり、その犬が自分が飼っていた犬の転生であることに気が付き、「おまえと別れるのは辛い」と嘆きながら、その犬に看取られながら亡くなるのだ。その犬は転生を繰り返して自分をかわいがってくれた主人を探しあて、その老人を慰めその老人は静かに死んで行くのだ。
私の場合は立場が逆で、私は重病の犬を抱えて、死んだら寂しいなと心からしみじみと思っているこの頃なのだ。老人の場合は自分が亡くなることによって、別れてしまうことが辛いのだ。私の場合は犬が死ぬことによって、辛く寂しいのだ。両方とも犬と別れることが辛いことなのだ。立場が違っても別れる辛さは一緒なので共感したのだ。
この物語がありえない話にしても多くの人の共感を得るのは、生物学的に大概先に犬が死んでしまい、寂しい思いを経験しているからだろう。私にしても勇太が転生してまた私に出会うなら無償の喜びだろう。
転生を思うのではなく、また飼えばいいのだが、私はもう年なので自分が死んだら犬はどうなるかと思うともう飼えないのだ。またそれが寂しさを増す原因にもなっている。私がもっと若ければ勇太の様な甲斐犬をまた飼って慰めとすればよいのだが、もう不可能なのだ。犬無しでは生きていけそうもないので、犬とのかかわりの方法を色々考えている。
私が買い取り、誰かに飼ってもらい、時折会いに行くとか、リースの犬を寂しい時に借りて、たまに家に連れ帰るとか、あるいは犬の世話をしている介護施設にボランティアで行くとか、いろいろと頭の中が回っている。
まあペットロス症候群なのだろう。ただ、今結構犬の介護が大変だが、かみさんと分担しているのでやれているなというところはある。だからパートナーの介護や、親の介護がいかに大変かがわかる。多分トイレが一番大変と思う。いっぽ(犬のあだ名)は3時間ごとにトイレだ。23時頃トイレで次が4時だ。一人だと寝不足になってしまう。これが人間の場合だと大変だと思う。認知症や体が不自由などでおむつをしている場合、大便をされるとその処理も大変だろう。今ワンちゃんはまだ外に連れて行ってやれているが、非常に脚が弱ったのでこの先おむつに用足しということになるだろう。中型犬だからうんちもそう大きくないので人間の場合に比べれば楽だろうが、末期に近づくと結構世話が大変だ。そういった世話をすれば、世話の大変さからもうワンちゃんは飼わなくても良いという気持ちになれたらありがたいのだが。
介護施設で犬を飼ってもよい所もある。旦那が死んで奥さんが犬と別れたくなく、入所してとても幸せそうなのだ。少し認知の人にも犬はとてもなつき、その人の深い慰めとなっているようだ。犬は人間に深く慰めを与えてくれるペットだから心が癒される。
小さい犬など、飼い主がべったり抱いている様子を時折見かける。こうなると人間対ペットというよりも、自分の子供か恋人だ。母親でも息子にべたっとしている親がいる。なにか親子というよりも恋人といった感じだ。もう精神的には恋人なのではないか。そういった感じの人間と犬の関係を案外見かける。
私の場合は家来か従僕といった感じだ。まあ忠実な家来ということか。いっぽはいつも私が家に帰る30分前から玄関で待っている。重症の今でもそれは変わらない。