山頭火の系譜 (2023年8月11日)

山頭火は旅に生きた人だ。

42歳で電車を止めそれが縁で禅門に入り、43歳で出家得度する。42歳までは酒浸りの生活だった。44歳に奉職の観音堂を出て一鉢人笠の行乞放浪の旅に出る。友人宅を訪問することもあったが、以後7年間を行乞放浪する。九州、山陰、山陽、四国などを放浪する。

彼は放浪詩人だったのだ。ひたすら歩く。行乞という生活手段は強かった。野宿のときがあってもお米お金を得ることができる。木賃宿にも泊まれる。酒も買える。俳句も作れる。歩ける間はとても充実した生き方ができたのだ。

彼は歩きに歩いたのだ。そんなふうに歩いた俳人は芭蕉や良寛だった。

芭蕉が覚悟して旅に出て、作った「野ざらし紀行」の冒頭に「野ざらしを心に風のしむ身哉」とある。旅の途中で病気になり倒れ、白骨となってしまう姿を思い浮かべた句だ。そういった野ざらしを覚悟してまで旅へと心が動く決意はすごい。旅に憑かれた、風狂の精神だ。

芭蕉は奥の細道で2400キロほとんど歩いた。西行や宗祇もたくさんの旅をした。

芭蕉は西行にあこがれていた。俳人は四季折々を友とする生き方を愛したのだ。旅を栖としたのだ。

「月日は百代(はくだい)の過客(旅人)にして、行きかふ年もまた旅人なり」と『奥の細道』の冒頭にある。「行きかふ年もまた旅人なり」については、なぜ年が旅人かと思ったのか、サクラ咲く春が過ぎ暑い夏、かと思えばもう冬だ。時がどんどん過ぎてゆく。まさに歳月は旅人のように過ぎてゆくのだ。歳月人を待たず、なのだ。これは時を中心に、自然を中心に考えるとそうなる。

人間中心だとそうはならない。人生は波乱万丈だ。山あり谷ありだ。時間という流れの中に人間の存在があり、その中を歩んでいる、時間の工程の中に旅はある。人は時間の流れを栖としているのだ。山頭火には67年間という時間を文字どおり旅する歴史があった。私にしてもまだ旅は続いている。日雇いをして、教会を作り、食堂を作った。それらの現象は一つ一つの時間の流れの中で作り上げた。時間という旅の中で作り上げてきたのだ。

振り返ると、ずっと戦ってきた。大変な戦いだった。それは毎日毎日がやっぱり旅だった。来る日も来る日も苦しい日々だった。空手に通ってけがをして、山頭火が毎日行乞したように、毎日山谷で行乞した。日雇いという旅もした。これはたいした財産になった。いまでも様々な出来事の中を旅している。

今は安定だが、皆年を取った。まりや食堂はみんなで支え合い組み立て何とか毎日を歩んでいる。

毎日が明日に向けた旅だ。今は年を取り、あとせいぜい10年の命だろう。毎日一日ずつ命がなくなっていると感じている。これも旅だろう。今日の一日の時間を使って、旅して、生きられるだけ歩むのだ。その旅でやれることはできるだけやっていこうと思っている。まずはまりやはできるだけ継続する、この山頭火を出版することだ。それにテニスを中級までもっていくことが私の残る時間を旅することだろう。土曜礼拝でできるだけ身につくような本を取り上げたい。木曜礼拝ではイザヤ書をいよいよ読破できそうだ。なかなか大変な予言者だ。再読しなくてはと思っている。

全てはやはり旅だ。人生を旅しているのかもしれない。それらを求めて歩み続けているのだ。時間という旅が栖だ。

時間の中を旅していることで、先日すごい体験をした。20年ぶりにボランティアが子供を連れてまりやにボランティアに来てくれた。一番親しくしていた人だから再会を喜んだのだが、彼女は感極まって涙を浮かべていた。大変苦労したようだったが、20年前に比べてたくましく強靱になっていたのには驚いた。20年間という時間の中で大変苦労したようでそれを乗り越え今日に至った顔つきと体つきが頼もしかった。やっぱり人は時間の中を旅するのだ。そこでもまれ強くなるのだ。山頭火は時間の旅をとても楽しんだ人なのだろう。最後は希望どおりぽっくりと死んだ。

私の旅はまだ続く。あと10年は続くだろうか。その間、私は日毎に自分が一日一日と死んで行くことを感じている。私という存在が日毎に無くなっているのだ。それだけにその日を大切にしなくてはならない。その日を精いっぱい生きなくてはならない。その日は戻らない。消耗した、死んでしまった一日、時間なのだ。残りを一生懸命に使わなくてはならない。

『奥の細道』の書き出し文に「舟の上に生涯を浮かべ馬の口とらえて老いをむかうる者は日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり」。船頭さん馬子(まご)は日々が旅だから旅が栖(すみか)だというのだ。昔の人も多くは旅に死んでいる。芭蕉も3年の月日を陸奥(みちのく)に旅する。ほとんどを徒歩(かち)だ。宿を泊まり歩いたのだ。これまた大変な旅だ。まさに旅が栖なのだ。

芭蕉は奥の細道などで遠くまで旅をしているが、お弟子さんを伴ったり、支援者も多く、旅の途中でその土地の俳句仲間と句会をして連句を巻いたり、歌仙を巻いた。その句会で指導料などを提供されたから路銀には不自由はなかったのだろう。名所旧跡を訪ね、神社仏閣に参拝している。蘆野(あしの、那須町)では西行法師が「道のべに清水流る柳かげ、しばしとてこそ立ちどまりつれ」と詠んだ柳のもとで、「田一枚植ゑて立ち去る柳かな」と詠んでいる。鳴子を通り尿前(しとまえ)の関所で吟味され遅くなりその役人の家に泊まったという。馬屋が母屋の中にあり「蚤虱(のみしらみ)馬の尿(しと)する枕もと」と詠んだ。当時は蚤虱は当たり前だったのだろうが、教養人にはそれほどなかったのだろうと思うが、俳句の旅の厳しさが思える。山頭火も蚤虱にはだいぶやられたと書いている。彼の泊まった木賃宿などはそれらの住処だろう。また山頭火も放浪していたからろくに衣服は洗濯もしないだろうから法衣などにはシラミがたかっていただろう。宿泊で「一家(ひとつや)に遊女もねたり萩と月」という俳句があるが、遊女も寝たというのはフィクションらしいが、時には雑魚寝のように同室に何人も寝る宿にも泊まったのだろう。山頭火は木賃宿に泊まったので当然一室に何人もが同宿したのだ。

芭蕉は俳句の指導者として尊敬されえていたから、旅先では俳句の愛好者の家に何日も泊まり骨休みをしている。この陸奥の旅にも門弟の同伴者曾良がいていろいろと世話をしたようだ。どういうわけか途中で別れてしまうのだ。しょせん人間ていうのはそんなものさ。

芭蕉は体が弱かった。痔があり、胃腸の持病もあった。道すがらお湯を求めてもなかなかなかったらしい。お湯を求めるというのが、すごい。知らない土地の水はあたる可能性があるから、体も弱いし慎重なのだろう。このような体の状態でも大旅行を実行するのはすごいことだ。旅の途上で死ぬことも覚悟の上だったのだ。湯に関して山頭火は水が好きだった。酒と水両方とも好きだと書いてある。流れに直に口をつけてがぶがぶと飲んだ。水は美しい、二日酔い後の水のうまさ。「飲みたい水が音たててゐた」「へうへうとして水を味ふ」などの短句で水の味に心から感謝している。このようにめっぽう水の好きな山頭火だった。

私は芭蕉と同じで、胃腸が強くないので生水はほとんど飲まない、冷まし湯かさ湯かお茶だ。夏でもお茶がおいしい。

芭蕉はそのような体の状態にもかかわず大旅行をしたのは、根本的には造花随順、風雅、風狂(現実から逸脱して自分自身に徹底すること。俳句の中に徹底していくことだ、それは狂気のようなのだ)、旅心だったのだ。

山頭火も風狂であったのだろう。

その点で山頭火は本当の漂泊者だったのだ。まさに旅を栖にした人だ。それだけに旅生活に即した迫りくる自由律俳句がいくつもあるのだ。

投げ出してまだ陽のある脚

この旅、果てもない旅のつくつくぼうし

だまって今日の草鞋穿く

生死の中の雪ふりしきる

法衣こんなにやぶれて草の実

ふりかえらない道をいそぐ

疲れて足を雨にうたせる(133)

雨に濡れながら宿を探すのだ。

いづれは土くれのやすけさ土に寝る(141)

熱の中行乞、悪寒してお堂で休んでいると子供たちが地面にござを敷いて寝かせてくれた。いずれはどこかでこんなふうに土くれのやさしさの中で死ぬのだろう。

病んで寝て蠅が一匹きただけ(145)

金がなく野宿が続き風邪をひく、お堂で寝ていると蠅がうるさい。

すこし熱がある風の中を急ぐ(148)

秋風の旅人になりきつてゐる(150)

ホイトウとよばれる村のしぐれかな(151)

旅はつらい、寒くなると身にこたえる。「ホイトウさん」(乞食さん)と呼ばれて振り返る。

降ったり照ったり死に場所をさがす(153)

どうしようもないわたしが歩いてゐる(154)  

人の情けにすがって生きている。情けないが今日も歩く、ひたすら歩くことに集中する。動けなくなるまで旅を続ける。(石寒太『山頭火』参照)

この人にも支援者がいて苦しいときはお金を所望していたのだ。

後半は庵を作ってもらいそこで生活するようになる。彼は自由律俳句でやはり支援者を作るほどの有能な俳句者であったのだろう。だから、晩年は行乞するには年をとっても何とか生活ができたのだ。今日は何も食べ物がないなどと日誌に書いている。