スケッチ (2020年5月16日)
勇太のスケッチをしている。たくさんある写真から気に入ったのを選び模写しているのだ。
私がスケッチをするなんて変だが、事実だ。結構うまくいっていると思う。
やはり勇太が懐かしく、手元にその思いをいつまでも置いておきたくて始めたのだ。私は勇太の目が好きで、それを中心に写真を撮りその結果、耳などがない場合など多くてかみさんに笑われる。勇太はいつも私を見ている。じっと見ているのだ。だから目に焦点を絞って撮るのが多い。
ちょうどよい機会だから、似顔絵だとか自然だとか花だとかスケッチをしたいと思うようになっている。晩年の趣味としては結構なことだ。それに写真がある。カメラは家内のお古で、一眼レフのでかいやつだ。それと誰でも取れる簡単カメラもある。
絵を描こうと思った動機にはもう一つある。かいつまんで話す。
ミスマッチで飛び込んできた中年の女性は模写が巧みだった。次回、だそうと思っている本にはたくさんの挿絵を入れようと考えてたが、この人にも挿絵を頼むことにしたのだ。
この人は精神的に少し問題がありそうだった。それはうちの伝道所に来た動機がすごいからだ。ある教会の会員なのだが、その教会に紛れ込んでいる秘密結社の人が自分を狙っているので、その人を排除してもらいたいと牧師に申し入れたそうだ。その秘密結社はある宗教団体がかんでいるらしい。牧師にそんなことができるはずもないので、ほっておいたのだろう。たまたま、まりや食堂の教会を何かで見て来たのだった。
上で話したようなことを真剣に話すので、気持ちが落ち着けばと思い、礼拝後そんな話を聞くことにしていた。超ファンダメンタルな信仰を持っていて常軌を逸している感じだが、できるだけ話を聞き、絵が得意なので挿絵を何枚か依頼した。それが励みや心の落ち着きになればよいと考えたからだ。ところが、今年の春、突如おかしくなったように私には見えた。それはその人に用事があり電話をした時のことだった。私が礼拝で取り上げた数人の一人がアンチキリスト者なのだが、そのような人を取り上げる教会には行けない、私の信仰が汚れるからだと宣言したのだった。
こういう人の挿絵は上手でも気持ちが悪くて使えないので、まりや食堂の関係者にお願いすると同時に私も書く必要があるだろうと思いスケッチを始めたのだった。そんな二つの動機が重なって考えてもみなかった絵を描く作業が始まったのだ。
勇太の思い出に勇太の絵を、写真をモデルにして描くのだ。勇太の思い出の写真と、勇太のスケッチを見て、私は自分を慰め自らを癒している。これも多分私の心の奥の勇太に対するわだかまりからきていると思っている。この絵にいろんな花を描がき添えてあげたいと思う。いろんなワンちゃんの絵も描きたいと思う。それを勇太の絵のそばに置いてあげたい。などなどいろんな思いが湧き上がり、それなりに気が紛れて今からの少ない人生を歩み切れそうな気がする。
そんな歩みの中で、勇太に対する私の癒しがたい寂しさが少しでも薄れるならありがたいし、スケッチをしなくても済むようになるならそれはそれでよいと思っている。そうなれば、勇太に対するわだかまりが少し薄まったことを意味するのだろう。どうであれ自分の心と対話しながら当分の間は歩んでいきたいと思っている。
またしても勇太なのだが、初めて短歌を作る
愛犬の 去りし日増しても 記憶濃く
庭のバラ切り 遺影に挿しぬ
愛犬の 写真模写して 懐かしむ
命湛(たた)えし 優しきまなこ