山頭火 (2023年5月24日)
戦争への思い(p.159、大山)
日中戦争が1937年(昭和12年)に始まり若者が戦争にとられる。馬も連れて行かれる。
ふたたびは踏むまいと踏みしめて征く(p.291)
応召で二度と踏むことがないかもしれない故郷の地
しぐれつつしづかにも六百五十柱(岩、p.340)
戦況が激しくなり、山口の駅からお骨の白い函を持った人々に衝撃を受けた。迎える人もすすり泣いていた。
戦死者がお骨となって帰ってくる。
雪へ雪ふる戦ひはこれからだといふ
もくもくとしてしぐるる白い函をまえに
いさましくもかなしくも白い函
お骨声なくみずのうへをゆく
その一片はふるさとの土となる秋
みんな出て征く山の青さのいよいよ青く
これが最後の日本の御飯を食べてゐる、汗
ぢつと瞳が瞳に喰ひ入る瞳
足は手は支那に残してふたたび日本に(戦傷兵士)
日ざかりの千人針の一針づつ
出て征く夫のために涙ぐんで赤糸の一針を求める若い妻。千人の人に一針縫ってもらう。武運があると言われる。
反戦句ではないが日常的な市民の悲しみを詠いあげている。これはこれでよいのではないか。戦争を賛美するのではない。山頭火は争いは嫌いなのだ。
『ひとたばの手紙』から反戦的俳句、これも無季俳句。
憲兵の前で滑って転んじゃった
戦争が廊下の奥に立っていた
この俳人は憲兵に逮捕され、監獄に入れられた。
大学生髪やはらかく戦死せり
傷兵を抱き傷兵の血に染まる
戦場へ一本の列が生き動く
兵寝て醒めず列車に雨来る
母の手に英霊ふるへをり鉄路
水筒の弾痕に触れ痛し
一兵士はしり戦場生れたり
にらみ合っていた戦闘集団が、一兵士の撃ちやすい場所への素早い移動をきっかけに戦闘が始まったのだろう。
私の自由律句
茶の間まで戦争飛び込むテレヴィジョン
人身御供停戦までに幾十万
山頭火は戦時普通の仕事を考えたが続かない。世の役に立たない社会のいぼだ、落ちこぼれと自嘲する。句しかできないと腹をくくる。
だがこの非常時にまた大酒を無銭飲食してしまう。45円を飲んだ。この金額は当時の巡査の初任給だという。よく飲んだものだ。この人は発作のようにこういった行動に走る。支払わねば刑務所だ。あちこちにSOSして息子の健太が支払った。上のようにすごい句を作るのに、酒は山頭火を愚弄する。
普通ならもう社会的には失墜する醜態なのだが、山頭火の自由律句がそのグループの高い評価を得ていたので、大酒飲みのしょうがない翁と受け入れられていたのだ。
このような醜態は幾度かしている。生活のため一杯飲むため金はあちこちから借りている。多分ほとんどは返さなかったのだろう(岩川、p.332以下)。
その点で尾崎放哉は気の毒だ。山頭火と同じ層雲に属し、自由律句の両雄として並び立っていた。東大出身のエリートだったが、同じように酒に問題があり、気の毒に酒乱だったらしい。人間関係もうまくいかず、転々と流転して。小豆島の南郷庵で貧困の中で病死した。山頭火もやはり貧困の中で心臓まひで急死する。このあたりも二人は似ている。
尾崎放哉の句
咳をしても一人
こんな良い月を一人で見て寝る
一人の道が暮れてきた
海風に筒抜けられて居るいつも一人
ひとをそしる心をすて豆の皮むく
障子あけて置く海も暮れきる
障子しめきって淋しさをみたす
これなどすごみがある。寂しさを究めようというのだ。普通なら寂しければ窓でも開けて星明りを見る、テレビつける、などして紛らそうとする。
ここに掲載された句は、独居の淋しさを詠っているのか、独居の優雅さを追求しているのかどうなのだろうか。
放哉はもともと無口で社会生活が苦手だと言われるから独居の楽しさを俳句にしたのだろう。
酒の事
酒乱は気の毒だ。飲むと気がくるってしまうのだ。アル症も気の毒だ。これはアルコールが止まらなくなるのだ。山頭火はアル症だったのだろう。
私も酒は飲む。毎日飲む。だけど沢山は飲めない。最近は飲んでもあまりおいしくない。
連続飲酒は無理だ。おいしくないし、体が続かない。だからそんな人はすごいと思う。体質が違うのかもしれない。
なんとなくわかるのは、私はチェーンスモーカーだった。寝ている以外は常に吸っている。おいしくないのに吸ってしまう。おいしさを求めて吸っているのかもしれない。頭の構造がそうなってしまっているのだろう。多分体よりも頭とか心がたばこを求めていたのかもしれない。今でも、多分一本吸えばたちまちヘビースモーカーになってしまうのだろうと思っている。恐ろしいことだ。
尾崎放哉の酒
突如として飲む。精神の不安を押さえようと飲む。酔いつぶれるまで飲む。飲むと攻撃的な粗暴な行動に出る(p.93)
飲まない時は優しい人間だ。しゃべりは下手だ。普通より弱い性格だ。
酒を飲むとジキルとハイドの二つの人格が転換する。素面の放哉と飲んだ放哉では同一人物と思われないほどだ。酒から醒めると酒で犯した失敗を激しく懺悔する。彼の人生はその繰り返しだ。これがその後のザンゲの生活だ(p.149、放哉評伝、村上護、放哉文庫、春陽堂)。
学生の頃からたくさん飲んだようだ。エリート社員として生命保険会社に入ったが、酒のそのような失敗で退社だ。大陸に渡っても同じく酒で失敗。病気を得て日本に戻る。一燈園に入るも酒の失敗。天功批判で去る。いくつか寺男になっても酒で失敗。最後は小豆島の庵で病死する。こういった庵も東大の出身の繋がりで紹介され入庵できたのだ。
こうしてみると、山頭火とさほど違いはない。ただ山頭火には酒乱や酒の凶暴さは聞かない。ただ目一杯飲んで知人に払わせたり、無銭飲食でぶち込まれたりした。彼の賢いのは行乞で稼げたことだ。放哉はせいぜい寺男になることだった。寺男になっても飲んでその住職を罵倒して追い出されたりした。放哉は結核で41歳で亡くなる。ほとんど自死に近いのではないか。何か生きる意欲はもうなかったのではないだろうか。自分の酒の問題に人生がいやになったのではないだろうか。山頭火は最後まで酒を愛し、周りからも愛された人生だったらしい。
放哉などは断酒しかまともに生きるには方法がないのだが、断酒はとても難しい。ちょっと一杯飲めばもう止まらなくなるのが放哉の酒だった。断酒会はある。断酒している人はいる。山谷にも山谷マックという断酒会はある。頑張っている人たちもいるのだ。
放哉のような酒癖の人は山谷にもいた。そ人は頭が切れる、そしてきちっと仲間の面倒をみるのだが、酒が入るとくるってしまうのだ。やたら粗暴になる。殴る。放哉のようだ。断酒もしたようだが、うまくいかず、自殺したと聞く。もう一人は普段は本当に借りてきた猫のようにおとなしい、酒が入ると粗暴になりめちゃくしゃになってしまう。今どうなったか。
こういう人は酒が脳神経に合わないのだ。飲めば神経がくるってしまうのだ。私も一度そのようなことがあった。仲間と飲んで気に食わないことがあってテーブルをひっくり返したことがあった。あとはあまり荒れたことはなかった。
山谷ではそういった癖があっても生きていけた。日雇いだから一日酒を我慢して仕事に行けば、金が入るし、それで飲んで暴れてもマンモス交番が来て豚箱に入り、次の日釈放とかだ。ただ暴れられた方は迷惑だ。まりや食堂もそんなことがあった。酔って粗暴な行為があったらみんなでやめてくださいとか、皆で対応するとよいとか教えられ実践した。実際酒で暴れる人は一番厄介だった。私はまりや食堂を守るために空手道場で鍛え、そういった人と渡り合ったりした。あれから40年もたって山谷もおとなしくなったが、たまにおかしなのがいる。まだまだドヤ街だから、いろんな人が流れてくるのだ。私はもういい加減な年になっているが、いざというときのために体は鍛えている。