まりやは身を引き締めて (2020年1月21日)

 

まりや食堂は身を引き締める

1月下旬コロナはまん延している。東京は日に2000人だ。

まりや食堂では引き締めるように職員に話をし、ボランティアの振る舞いがより用心深いようにすることを指示した。

これは、2月下旬か3月からワクチン接種ができるとニュースが報じていたことに対する対応だ。間もなく接種ができるのだから、今が用心のしどころなのだ。慣れっこになり防備が甘くなりがちだから、今こそ手洗い消毒うがいを良くすることがまりやに来た時に求められる。さらに厨房における作業も三密を避け、おしゃべりを避けなくてはならない。作業後の一服もお菓子をほおばったら素早くマスクをして三密を避けなくてはならない。

用心に用心をしてワクチンの接種を待つのが良いのだ。

私はかなり前からワクチンだとわめいてきた。治験とか安全性とかを、100パーセントする時が今はないのだ。それが日本はお役所仕事でもたもたぐずぐずだ。その結果コロナがパンデミックになり、経済が縮小してみな苦しくなった。GoToをするんだったら一緒に接種もするような方向でやれば、GoToはやれたし経済もそこそこになっていたはずだ。

役所は治験をきちっとしないで事故が多発して批判されるのを恐れる根性なのだ。

行政大臣の河野さんが抜擢されワクチンの段取りをする。縦割り役所の弊害を打破してやってほしい。これで男を上げれば首相の座をうかがうことができる。がんばれ。

すべての存在と共に (2020年12月4日)


ファン・デグォン『野草の手紙』(自然食通信社)を紹介し、感想を述べる。

 この人は韓国人で海外留学生スパイ団事件に巻き込まれ、あらゆる拷問を受け無期懲役刑を科せられ13年2か月後に釈放された(249頁)。その間独房生活を通して体験実践してきたことをこの本を通して紹介する。この人の特異な体験から学ぶことは貴重だと思う。

 「投獄から5年無実を訴え続けてさまざまな抵抗を試みたがすべて失敗に終わり、ファンは心身ともに疲弊しきっていた。絶望の淵で彼はふと刑務所の片隅にそっと生きている虫や雑野草に目をとめた。そしてそこに自らのいのちと連なる生命の営みを見出したのだった(9頁)。」

 想像さえしない罪名に無期懲役という刑に独房でもがき体を壊し、ただ生きるために刑務所の庭の育っていた雑草をむしりとって食べ始めた。ほぼ草を毎日食べているうちに草を研究するようになり草の中に生きる小さな生き物と親しくなった。雑草を食べ元気になった。人間の文明は彼らの助力と犠牲の上に成り立つという(268頁)。

 彼は無実の訴えをさまざまにしたが取り上げられず、独房生活の5年ほどして、自分がしがみついていたものが無意味だと思った時に新しい道が開けた(10頁)。新しい道に導いたのはありふれた野草や虫たち微生物たちだった。それらが息づく低い場所に降り立ち交わりを通して彼は甦ったのだ(10頁)。

 一坪の部屋で自分が宇宙なのだと感じ、部屋を飛んでいるハエ、垂れ下がっているクモも自分の身体の一部、自分が接しているあらゆるものが自分の身体の広がりと認識したという(257頁)。

 身体の一部というのだから、自分の手足と同じ感覚なのだ。自分の手足は大事にするから、同じようにその虫たちも大切に扱うということなのだろう。やはりそこにあるのは共生だ。対等に平等に生きる生き方なのだ。あらゆる存在とつながっていると上で述べた通りなのだろう。

 そういった小さい存在の息づきについて「私は想像しました。わたしが吸う息のなかにはこの世に存在するすべての生き物たちが吐いた息がある。そしてわたしが吐き出す息を他の生きものたちが吸う。呼吸を通じて、存在するすべての生きものたちとつながっていることを、わたしは感じました(11頁)」。

 私はそこまでは思えないが、私は年だしそう長くは生きられないから、小さな生き物に心が行くのだ。それで小さな生き物や野草に興味を持っている時にこの本に出会ったのだ。

 「人間だけでなくすべての生きものが、この世界を美しくするために生まれてきた存在なのです。道端の草や花、その間に生きる虫、そして人間。すべてが同等の価値をもっています。みんな“命の饗宴”というパーティーに招待された存在だと思えばいい。そしてそのなかで自分の居場所を見つけさえすればいいのです(11頁)。」

 すべての命の賛歌を

 どちらかというと迷惑がられる野草について「野草が成長してゆくようすをじっくり眺めてみましょう。けっして、意味もなくそこに芽生えたわけではありません。よく言われることですが、神がこの世を創造されたとき、不要なものなどひとつもつくられませんでした。野草も同様に、すべて自然が、その大地が必要としているからこそ、その場所で育っているのです(257頁)」。(253頁)雑草にも生きる権利があるのだ。

 私は畑がたがやされ黒々と一面に展開しているのを時折見かけるが、少し気持ち悪いと感じている。青いものが一本もないような土ってあるのだろうかと。実際は肥をすきこんで青菜を植え付けるための畑なんだ。でもなんだかこれは土を痛めつけているのではないだろうかと感じる。

 畑が、自然の状態ではなくて、人工的に野菜を生産するための機械的な物質に変えられているような感じがする。雑草は一本もなく、種をまき肥料を上げ、太陽の光線を浴びてものが生産される。なにか偏った土地の使い方のようだと感じて仕方がない。

 農民は言う。わたしが植えたものは作物で、わたしが育てて食べるのもまた作物だ。おまえはわたしが育てて食べようとする作物の栄養を横取りし、栽培の邪魔ばかりする。つまりおまえはわたしの利害に一致しない敵なのだ。わたしが生きるために申し訳ないがおまえたちには死んでもらう(250頁)。こうして雑草は虐げられ農薬でみな枯れた。その結果、その草を食べていた動物生物も死に絶えます(250頁)。今や世界的に農薬の害が問題になっている。

 だが、私には矛盾がある。こんな感想を畑に持っていても、様々な人から野菜の支援がある。農業をしている人や、個人菜園や様々だ。そういった支援で安い弁当に野菜たっぷりの弁当を作り上げられるのだ。でもできるだけすべての存在が大事にされるような自然でありたい。

 存在はすべて同等の価値を持ち共に生きる存在なのだ。この人の言う、生き物が皆共生しているのだと考えるのには共感できる。生きものはみな同類なのだろう。自分が飼っていた犬が二匹ともすでに死んでいる。けれどもいつも二匹の犬を思い出す。自分の仲間だったような気がする。ある時ハエが食卓にまとわりつき離れない。不潔なので追い払うがだめだ。なにかその時にもしかするとこれは雄太(犬の名前)の生まれ変わりかなと思ってしまった。なぜかというと、親しげに私にまとわりつくからだ。何とか追い払って済んだ。

 私はファンさんの発言から聖書の「山上の垂訓」の「思い悩むな」という個所について考えてみたい(マタイ6の25-34)。

 天の父は鳥を養ってくださる(26節)。野の花を着飾っている。それは神がそのように装ってくださっているからだ(30節)。ましてや神はあなたがの面倒を見ている(30節)から、思いわずらわずに、まずは神の義を求めよ(33節)というのだ。

 野の草花については、「あなた方」との比較の対象として言っているので、これらが中心話題ではない。しかし、神はこういった草花をも目に掛け成長させてくださっているというのだ。結局のところ、そういった存在も神の面倒で成長し、中心的な人間も神が面倒を見て成長しているのだ。したがって、神はその意味ですべての面倒を見ていることになる。

 この人はこういった生き物と共生が大切だと説くのだ。これによって地球が存続することになるんだというのだ。今共生が唱えられている。地球を守るために。その思想の一つとしてこの考えもありなのだ。小さい命を守ることが地球を守ることなのだ。






 


命を削る
 (2020年12月4日)

車で山谷に通勤するが、山谷の道路の一角の歩道の縁石でコップ酒を飲んでいる男を毎朝見かける。この調子で一日中飲んでいるのだろう。少し弱ったようだ。以前は歩きながらコップ酒を飲んでいた。それ以前はまりやの前で会えば気軽に挨拶していた。今見かける彼は色が浅黒くなり、しゃがんで飲んでいる。元気がなさそうだ。多分だいぶ内臓がやられているのだろう。

山谷は酒の街でもある。今は泥酔して路上で寝ている人はほぼ見かけなくなったが、朝から昼からよく飲んでいる。自動販売機のそばで飲んでいる。今はもう見かけなくなったが販売機の横で朝いつも飲んでいた人がいた。見るたびに頬がやつれてきた。多分酒と心中するつもりなのだろう。

その気持ちはわからないわけでもない。わたしも晩酌を欠かせないからだ。まあでも入院となれば、酒を断っても平気だからまあ良しとすべきだろう。

最初に触れた人などは、長年見かける山谷の人だが、何か命を削りながら飲んでいるような気がしてならない。少しずつ命が酒によって削られているのだ。多分一向にかまわないので命の最後の一片まで飲んで、満足して自然に帰っていくのだろう。

そんな人は以前もいた。怖い人だった。乱暴者で問題飲酒者だった。いくら酒に強くてもいつかは内臓がやられる。いつからか山谷から姿が見えなくなって、ほっとしている。

日本人は飲み屋が好きなようだと、コロナの件で感じた。感染源の一つが飲み屋で自粛が要請されている。上で述べた縁石で飲み続けている人の例は別に山谷だけでなく、日本中のどこでものことなのだろう。普通の人は目立たないようにしているだけだ。飲み屋がやたらはやることによって、そこがアルコール依存症の予備軍の造成場になる危険性はある。それぞれ自分の力量で飲むのだからとやかく言えないが、早くワクチンが使用できるようになればありがたいと思うだけだ。

  A先生の思い出 (2020年11月25日)

 お亡くなりになって、奥さんから先生の衣類があるとのことで頂くことにした。

 普段から献品で頂いた衣類はバザーをしたり玄関前に置いて山谷のおじさんに提供している。衣類配布は手渡しが良いのだが、人手の都合でできないでいる。

 衣類は買えばそれなりに高い。バザーでは平均300円ぐらい、玄関前に置けば野宿の人や近隣のドヤの人たちが使ってくれる。さほど良いものではないが十分着られるから衣類代が助かる。この方法は大いなるリサイクルだ。一般家庭の使わなくなった衣料が無駄なく使えるからだ。おじさんたちは使い切ったらゴミにして、その衣類は十分役目を果たし一生を終える。

 A先生の衣類には特別の感慨がある。それは山谷兄弟の家伝道所やまりや食堂を立ち上げる際には、ひと方なる世話になったからだ。私は一匹オオカミみたいに生きてきたので、単独で山谷に入り日雇いをしながら伝道を開始した。

 そうした中で、炊き出しの必要性やその後安い食堂設立などを考えていた。立ち上げるのは一人では無理だったが、たまたま知り合った人の紹介でA先生との出会いがあり、展望が開けた。温厚な方でキリスト教会の各方面につてがあり、幅広く支援の輪を広げることができている。そのような活動を通して、借地とはいえ3階建ての教会兼食堂(現在は弁当屋)を作ることができた。ひとえに先生のお支えがあったからだといつも心にとめている。

 その方の衣類だから、形見となる品をいくつか頂いた。こうして世話になった先生の思いが具体的に手元に残り先生の好意をいつも胸に持つことができて感謝だ。沢山頂いた衣類は山谷のおじさんへのバザーと無料配布で使うことができた。生活の厳しい人への思いから私の屋台骨を支援してくださり、こうしてお亡くなりになっても、身に着けていたものを山谷のおじさんに配れたから、きっと先生もお喜びのことだと思う。

 A先生との出会いは40年もの前で、退職、引退などによってつながりは切れていたが、支援者という関わりで、こうした衣類を頂きなにか先生とのいのちのつながりみたいなものを感じている。衣類は物なのだが、それを行為する主体の思いは、そういったところへの思いがあるからで、その思いは一つのいのちなのだろうと思う。そしてそのいのちに、私も帽子の遺品を通して預からせていただいているように思える。それはA先生の未来であったのだ。遺品について話すとき、遺品に触れる時それだけで亡くなった人の未来に関わっているのだ。


 鳩に餌をやる人 (2020年11月17日)

 まりや食堂の前はいつも鳩の糞で汚れている。運悪く電線が幾本もあり止まり木にして糞を落としているのだ。毎朝おじさんがお水とたわしで洗ってくれる。

 餌をやる人は知っている。いつものり弁の大を買っていく「のり弁おじいさん」だ。ほぼ酔っている。鬚もじゃの人で、近所のドヤ住まいだ。山谷では、一人住まいのわびしさから動物をかわいがる人が多いが、この人は隣の駐車場にしゃがみいつも鳩にパンくずを上げている。

 こんな人のおかげで、はとが繁殖し糞だらけとなるのだ。この人に糞のことで注意するのもしづらい。これが楽しみなのだろうと思うからだ。鳩は人懐っこいから親しみを込めて寄ってくる。かわいいかわいいと餌をやるから足元に群がるのだ。楽しいひと時なのだ。これをぶち壊すのもかわいそうだ。この人はこれで心がなごむのだ。

 たわしで掃除してくれるおじさんは「黒卵焼きのおじさん」でまりや食堂では通っている。次の日食べるのでしっかり焼いてもらいたいのだ。このセリフから推し量って路上生活者なのだろう。ある日交渉して、路上に水を撒いてもらえたら毎晩卵焼き弁当を提供したいのだがとおずおずと頼んだら快諾してくれた。

 まりや食堂の周辺はその糞やツバ、タンなどで汚れている。特に糞はひどい。それに隣の駐車場とまりや食堂はヘンスで仕切っているが、このヘンスの場所が道路から少し奥まっていて車が何台も駐車していれば、立小便には恰好の場所なのだ。おじさん達はひっきりなしにそこで用を足すので、臭い。小便がしみ込んで不快な臭いまでする。そこまで水を撒いてもらうために長いホースを提供したのだが最近は怠けているみたいだ。内の人間に頼んで水を撒くしかないだろうと思っている。

 駐車場管理者に強く言えばよいのだが、ここらは皆借地。駐車場は地主の所有なのでなかなか言えないでいる。法が変わり、だいぶ前から地主の権利が強くなったので借りている方は強いことが言いづらいのだ。


癌を叩く 追憶の勇太(2019年12月9日)

闘病の勇太の事


 うつっぽい日が続く。内憂外患だ。すべてがすっきりしないからだ。唯一慰めは出版した絵本がよく売れていることだ。これは多くの人の協力に負うところが多い。

まりや食堂の働き手は老人化した。すこし人を動かしているがすっきりはしない。いっぽ(犬の勇太)の状態は不明だ。投薬で肝臓や腎臓が悪くなっているが、薬を抑えても、悪い状態に変化がなく、抑えた分癌が勢いを盛り返している。

医者は思い切って強い癌の薬を使って、様子を見ようとなった。私にしてもそれしか選択肢はないと思い同意した。

この先はこの薬の効き具合と体の反応だ。現在、食欲はあまりない。このままではじり貧だ。ただ、この癌が食欲を奪うからいかんともしがたい。命がないものを無理やり生かしてもしょうがないので、無理なら無理で、辛くないように余命を全うさせたい。

このいっぽのことが私を一番悲しませる。食欲がないので、一生懸命に魚や肉を用意していっぽの食いつきを誘うのだが、それらに鼻ずらを持っていくが食べようとはしない。今朝はやっと病人用の缶詰と牛肉の煮たのと、とりとジャガイモの煮たのを少し食べた。

もう一つうつなのは潜血検査でプラスと出たことだ。去年もそうだった。内視鏡を入れて検査だが、これが大変だ。腸をからにするために下剤を大量に飲まなくてはならない。結構体と精神に負担だ。

そういったわけで気分は良好とはいかないが、これらの事実は避けられないので悲しみながらも前に進んでいき、やるべきことは的確にしていくつもりだ。

ただ、勇太についての慰めは、いっぽの世話が結構面倒で、おむつをしたり、5時間ごとに外へトイレをさせたり、これの食材を買い手作りで作るなど、私自身も忙しくしているので、けっこう大変なのだが、こうして尽くせるのもいっぽがそれなりに生きているからで、こういった世話で私は、慰められ癒されているのだろう。

甲斐(前に飼っていた犬)は突然死だったので心が強く傷つき今でも癒されない。非常に愛していた宝が突如奪われたからだ。甲斐は体が弱く心を尽くして世話をした犬だけに私の心に住んでいたのだった。その点で勇太はぐずぐず生きて面倒だが、それだけ手を尽くしたと慰められるだろう。私には友達がいないから、勇太がいなくなればとてもさびしくなるだろう。

朝自転車でまりや食堂に着くと、「犬は?」といつものおじさんがコインランドリーの入り口から声を掛けてくる。「病気で家にいるの、癌なんだ。助からないかも。」おじさんは「生きているものはみんな死ぬからな」と哲学者風だ。彼は存在の意味を知っているのだ。彼は毎日卵焼き弁当を買いにくる人だ。野宿をしている。だから卵焼きは真っ黒に焼いてくれと注文する。そのわけは翌朝食べるので、傷むのを心配して、よく火を通すことを願っているのだ。

ぬくもり 追憶の勇太(2020年3月6日)


 いっぽ(犬の勇太)は朝まだふかふかの毛布にうずくまり気持ちよさそうに顔を毛布に押し当ててじっとしている。外の作業で冷え切った両手をいっぽの背中に押し当てるとぬくもりが伝わっきた。生きているって、こういう事なんだと、心が叫ぶ。闘病生活6か月、だめかなーということもあったりしたが、死ねばこのぬくもりは無くなり、冷たい体となってしまうのだ。ぬくもりはいい。ぬくもりを通して命が伝わってくる。ほとんど一日寝ているが、がんばってぬくもりを保持してもらいたい。