山頭火 (2023年4月19日)


山頭火を知っている人は大勢いる。何度か山頭火ブームがあったと聞く。今でも山頭火が様々な形で生きている。彼の生まれた防府には山頭火ふるさと館がある。

自由律俳句の代表的俳人。5,7,5や季語にとらわれない俳句だ。大正15年放浪の旅に出る。俳句仲間に支えられ放浪と一時定住を繰り返した。旅と句と酒と温泉に生きた。山頭火の俳句は多くの人に好かれている。

山頭火の履歴を少し追ってみよう。

明治15年、防府市に生まれる。

種田家は大種田と言われた大富豪だった。宅地の総面積は850坪だった。父竹次郎は政治にのめりこみ、女にのめりこみ家を顧みなかった。

25年、母フサは絶望して自殺

少年の正一の心に深い傷を負う。

34年、早稲田大学文学部に入学

彼は優秀だったのだ。俳句、短歌もした文学青年だった。

37年、神経衰弱のために退学

40年代、父は代代の屋敷を売却、酒造場を開業

42年、結婚

43年、長男健誕生

家庭を顧みなかった。多分家庭には関心がなかったのだ。

大正2年、俳句雑誌、層雲に自由律俳句を投稿

層雲の句友と親交を深める。層雲では注目された。無軌道な酒になる。

5年、酒造所破産一家離散。山頭火一家は熊本市に行く。

古書店雅楽多を開業

家業は手につかず、上京したり、文学にのめりこむ。

大正7年、弟次郎自殺

9年、離婚

酒浸りの生活だったようだ。

彼はなぜ酒浸りの生活だったのだろうか。

憂鬱症だったと岩川は言う。その解消で酒を飲む。飲むと泥酔するまで飲み、翌日は自責の念にかられるという。その繰り返しだった。

13年、泥酔して市電を止める。知り合いが報恩寺に連れてゆく。

14年、曹洞宗報恩時望月義庵の下出家得度、僧侶となる。

味取の観音堂の堂守となる。

「松はみな枝垂れて南無観世音」

15年、44歳行乞流転の旅、九州、山陽、山陰と流転する。

これ以来行乞流転の生活になる。多分、この生き方が性分に合っていたのだろう。托鉢してお米とお金を恵んでもらい、好きな酒を飲み、俳句を作り、好きなように旅を続けるのだ。気ままで精神的には良かったのだろう。ずっと日誌はつけていた。自由律俳句も作っていた。

「この旅、果てもない旅つくつくぼうし」

旅を続け、お金が足らず宿に留め置かれたりすると、俳句仲間に支援を頼むなどして生きていたのだ。支えの友人が幾人もいたのでそういった生活が可能だったのだろう。

昭和4年、北九州地方、雅楽多に戻る。再び旅

昭和5年、熊本で借間「389居」で自炊

昭和7年、某中庵に住む、鉢の子出版

11年大阪、平泉まで

13年、56歳風来居に転居

14年、長野、四国、一草庵に落ち着く

幾度か庵で生活するが、これらも俳句仲間の支援ですることができた。

15年、58歳一代句集『早木塔』発刊

この自由律俳句集は素晴らしい。このような俳句の力が友人たちをひきつけ、山頭火が生き延びる力になったのだろう。

10月11日未明死亡。念願どおりぽっくり亡くなる。死因は心臓麻痺だ。