山頭火 (2023年4月7日)


分け入っても分け入っても青い山

私には謎めいた感じの句に思える。

得度して堂守となる。転生と著者は言っている(p.109)。でも著者(岩川)は山頭火の

生き方に批判的だ。転生とはでなにを言いたいのか。

これについて大山澄太『俳人山頭火の生涯』が参考になった。

電車の珍事を契機に悩ましいふしだらな前半生を滅却し去りよき和尚を師として新生の道を歩み得度し、出家したのだ。時44歳だ(p.18)。やはり転生なのだろう。


一年にしてそこを去り越前に向かい行方知れずになる。行乞流転の旅に出る。

「分け入っても分け入っても青い山」という心境だったのだろう。

山頭火には、幼いときの母の自殺、家の破産、おやじの放蕩三昧、弟の自殺等に翻弄された生き方だったのだろう。そういった状況を打開する方法もなくある時は泥酔していたのだろう。電車を止める事件を契機に寺に入り得度したのだ。

韓国語のハンの状態ではなかったか。人生の長い旅路でどうしようもない運命に翻弄され、さいなまれ、苦しむ。その旅路でひもの結び目のように結ばれたものそれがハンだ。あるべき姿とそれへの挫折の無念がセットになった感情がハンなのだ。(p.4)

「心で知る、韓国」


村上護は『山頭火 漂泊の生涯』(春陽堂)の中で出奔の動機を書いている。

解くすべもない惑いを背負うて旅に出て、歩き続ける(p.113)。 そういった結び目を解こうとしていたのではないだろうか。それが行乞と句作だったのだろう。残念なのはきっとアル中なのだろう。時々大失態をおこすのだ。旅においても、酒も飲むから生活は厳しいものがあっただろう。

行乞し木賃宿に泊まる。宿代と飲み代、女も買ったらしい。作句は呼吸と同じだ。

愚かな旅人として放浪するより外に私の生き方はない(岩川、p.123).一定に定住できないのだ。これは本音なのだろう(菊地)。

3時間の行乞で食えるうらやましいと(岩川、p.125)。


句を作るはやめるわけにはいかない。あるいた(p.128)。風呂浴び、酒飲み、温泉、旅、温泉すき。(p.131)。

托鉢ができるのは袈裟(けさ)の功徳(くどく)だ(p.135)。

あるかない日はさびしい、飲まない日はさびしい、句を作らない日はさびしい。時に躁鬱になるのだ(p.143)、時に自虐的自分を責めるのだ。

こういった生活、日常性がショウにあっていたのだろう。だから、堂守は良いのだが、食べていけるし、本も読めるし、ただ一人で寂しいのだ。ぽつんと一人でいることに耐えられずに一年にして出奔したのだろう。

なんとか結び目を解こうとする行乞の人生だったのではないだろうか。だが結び目が解けずに亡くなったのかもしれない。


「分け入っても分け入っても青い山」

「山を越え、山に分け入り、分け入り、無限につづく山を毎日毎日旅してゆく。何を求めて山に入ってゆくのであろう、行っても行っても山はいよいよ青くなるだけで、呼べども呼べども答えない。」(大山、pp.25-26)と大山はこの句を解説している。山頭火はこの句が気に入っていてよく短冊に書いたそうだ。

これが山頭火の人生だったのだ。たくさんの支えがあったから最後まで山は青かったのだ。枯れ枝のたくさんある荒れた山ではなかったのだ。呼べども答えがなかったのではなく、呼べば友が助けてくれたのだ。


この句は私の人生でもある、また人生としてあり続けている。導かれ山谷の山に分け入ったのだ。山谷伝道に行ったというより、やはり山谷に入ったというのが実感だ。

山谷の人にはなれなかったが、同じ日雇いをしながら山谷に分け入り分け入り、友を作り、日雇いをしたり、共に酒を飲んだり集会を開いたりして山谷に分け入っていったのだ。

行っても行っても山は青い。山谷もそうだ、変貌しても山谷はあり続ける。決して枯れない。

今まりや食堂の弁当屋をしているが、客人はどんどん変わるが継続している。後継者は現れないから、呼んでも呼んでも返事がないのだ。