小さな旅 (2020年4月6日)



悪性癌に侵されても、半年以上耐えている。医者が適切な薬を投入しているからだろう。そこは良い病院としてとても混む。だが、治療費は馬鹿にできない高さだ。先日は一か月の薬もいただいて46000円だった。この金額は私のお小遣いに響いてくる高さだ。
診察を待つ周りの人たちの身なりはそこそこなのに、私が月々支払うほどの犬の治療費は負担ではないのだろうか。中には負担に耐えかねて治療を断念させて延命を停止しているのかもしれない。私の知り合いの犬は癌が大きくなり体の外に飛び出し、そこにお薬を塗っているだけだった。最後は水だけ10日ほど飲んで死んだ。そこの医者はより積極的な治療はしなかったのだろう。多分末期癌で積極的治療をしても助かる見込みがなかったからなのだろう。その治療費も高いだろうから。
 うちの犬の場合はどうだろうか。気持ちが揺れるのは正直なところだ。悪性癌で治る見込みがないのに、時間と手間と金を使って延命の努力が必要なのかと。今朝の状況を言えば、昨夜12時ごろちっこさせて、今朝は3時半に行きたい素振りで、眠い目をこすりオーバーを羽織り、急ぎ外へ連れ出した。6時にも行き、犬と自分の食事の用意だ。犬はもうドッグフードは食べないので、人間のおかずを味付けないで上げる。なにか犬のための一日なのだ。特に早朝におしっこなので着の身着のままごろ寝だ。そうしないと外に連れ出す前に、おむつにしてしまうからだ。おむつにはパットも付けて、たっぷりのちっこに対応しているが、できれば汚したくないし、それだけで受けきれなくて、畳を汚してしまう場合もある。おむつの上におむつをもう一個して対応をするようにした。
 こうまでして支えるのはどうしてだろうか。偉そうな哲学めいた命の尊厳というより、
長く一緒にいて、忙しい時など面倒くさいと思うときもある。だが、私には友達もいないし、慰め犬ではないが、面倒見ることで何か自分を犬のつっかえ棒としているのだろう。多分世話をすることによって、自分を支えているのだろう。懸命にこうして面倒を見れば、いっぽ(犬のあだ名)がいなくなってもこうした苦労が思い出として強く残るだろう。弱っているから抱っこすれば、ぬくもりが伝わってきて、生きもだと感じる。息もしている。生きているんだ。冷たくなり、息もしなくなったら、そこにあるのは無だ。何にもなくなることだ。それは寂しいし、孤独で生きていかなくてはならない。そうなるのはさほど遠くはないだろうが、延命に懸命な医者に出会ったのだから、いっぽが生きられるだけ生かしてあげるのが私の役目だろうし、私のためでもある。かなり高額な薬を使うのもやむをえないだろう。月10万円までは覚悟している。
 もう病気は気にしないで、旅に出ている。末期だし、気にしてもどうにもならないからだ。この冬一緒に雪国に行けた。私のスノーボードのためだ。その宿舎は夕食がないから楽だ。出入りも玄関を通らなくて楽だった。犬のご飯は家で用意したものや缶詰だ。
 現在はコロナ肺炎のために外出が制限されたから、ほとぼりが冷めたらいっぽが生きている間は一緒に小さな旅にまた行こうと思う。こういった生き方も私には剣を鋤に変える生き方なのである。